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日本人の物語00413【平安後期】保元の乱 悪左府頼長の最期

 居館を失った崇徳上皇は、為義を伴って白河北殿から逃亡しました。このとき、為義の指示により為義の6人の子は残り、上皇がまだ中にいるよう装って戦い続けることとなりました。上皇を守るため、体を張って戦ったのですね。しかし、やがて敵が御所になだれこんできたため、為朝らはやむなく逃亡します。
 崇徳上皇の一行は、如意山(現・如意ヶ嶽:京都市左京区)に逃げ込みますが、崇徳上皇が
「私一人ならば敵も殺しはしまい。私のためにも、皆は逃げのびてほしい」
と述べたことから、為義らは散り散りに逃亡しました。最終的に、崇徳と行動を共にする者は僅か3名になったといいます。
 崇徳は逃亡中「出家したい」と洩らしますが、出家に必要な僧侶もおらず、剃刀すらもありません。やむなく一行は、輿を調達して夜の京をあてもなくさまようこととなりました。
 合戦から一夜が明けた保元元(1156)年7月12日。崇徳上皇は、洛北の知足院に赴き、そこでようやく出家することができました。さらに翌13日、崇徳上皇は末弟で仁和寺の門跡を務めていた覚性(かくしょう:1129~1169)を頼り、仁和寺に逃げ込みますが、通報され捕縛されてしまいます。
 一方、同様に白河北殿を追われた藤原頼長は、逃げる途中に流れ矢を首に受け、瀕死の重傷を負いました。後に、源重貞(みなもとのしげさだ)が放った矢が木に当たって下に落ちる途中、頼長に当たったものと判明しました。さすがに藤原氏の氏長者に対して直接矢を射ようとする者がいたわけではなかったのですね。
 輿に乗せられた頼長は、頼るべき場所もなく、奈良・興福寺に隠居している父のもとに向かいます。7月13日にようやく興福寺に辿り着き、父・忠実に面会を希望しました。
 ところが頼長は、忠実の家人から、
「氏の長者でありながら矢に当たるとは、もはや春日大社のご加護は失われたものと見える。そのような穢れた者とは会えない」
との伝言を告げられ、門前払いされてしまうのです。
 忠実としては、かわいがっていた次男・頼長が頼ってきたわけですから、断腸の思いだったでしょう。しかしこれを公然と庇護することは、いかなる処罰を招くか分かりません。藤原一族の将来のため、次男を見殺しにするしかなかったのです。
 忠実の伝言が伝えられると、頼長は舌を噛み、血を吐きました。その後丸一日苦しみ抜いた上で、翌14日に死去しました。
 頼長の死に様を聞いた忠実は、
「会ってやれば良かった」
と後悔し、むせび泣いたと伝えられています。

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