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日本人の物語01656【室町/西国/六角征伐】不遜な政元

義尚が将軍権力を取り戻せない最大の原因は細川政元にある気がします。

 9代将軍義尚は父と違って、管領や有力守護に縛られず自ら政務上の決定を行う独裁者を目指していたようですが、一方で人付き合いが悪く、特に皇族や公家との付き合いには消極的でした。
 記録を見ると、文明18(1486)年の年始参賀では「風邪」のため、翌年の年始参賀では「蚊触(かぶれ:皮膚病のことか)」のためと称して、公家たちに会わずに済ませています。また、文明19(1487)年4月10日には、義政・富子が参内して後土御門天皇と飲酒していた際、天皇から直々に呼ばれたにもかかわらず義尚は体調不良を理由に断っています。武家以外と付き合うのが余程嫌なようです。
 その一方で、義尚は武士たちの統率に精力的に取り組んでいます。文明18(1486)年3月には、義尚は両畠山の争いを終わらせるべく、政長に対して義就と和睦するよう薦めました。政長は強硬に拒否して、4月4日には義就赦免を推し進めようとしていた正親町三条公治の邸宅を襲撃までしました。公治自身はどうにか難を逃れたものの、たまたま公治邸を訪問していた長野藤継が死去するという大事件に発展しました。しかし義尚はかえって強硬になって義就を赦免し、有無を言わさず和睦させてしまいました。将軍の強力な権限を行使したのです。
 ただ、義尚には全ての守護を従わせるほどの権力はなかったようです。従順ならざる守護の筆頭が細川政元でした。
 当時、管領職は出費がかさむばかりで実益がないとされ、幕府は管領のなり手不足に悩んでいました。幕府は義尚の右大将拝賀の儀を行う上で、儀式上どうしても管領の存在が必要だったことから再三政元に管領就任を打診し、ようやく就任してもらったのですが、文明18(1486)年7月25日に管領に就任した政元は、拝賀の儀が終わると7月29日に辞任しました。義尚政権に協力するつもりはないということでしょう。一説には、政元は拝賀の儀の供奉役(ぐぶやく)に畠山政長の子・尚順(ひさのぶ:1476~1522)を推薦したのに、義尚に拒否されたのが気に入らなかったともいわれています。
 しかし、義尚も影響力の強い政元の存在を無視できませんでした。というのも、義尚が六角氏を征伐する際に、三管領筆頭たる細川家から兵を出してもらわないことには諸大名も出兵命令に従わないとみられたためです。
 さて、ここで六角征伐の話が初めて出てきました。六角高頼を征伐することこそ、9代将軍義尚と10代将軍義材が政治生命をかけて取り組んだ事業であり、将軍権力を再生できるか否かが問われる重要な局面でした。それだけに、絶対に失敗できない義尚としては細川政元の機嫌を取ってでも参加してもらう必要があったのです。
 次回から、なぜ六角高頼を征伐することになったのかを見ていきましょう。

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