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日本人の物語00230【奈良】48代称徳天皇

 藤原仲麻呂の乱の結果、淳仁天皇は廃位されました。譲位したのではなく廃位されたため、「上皇」を名乗ることはできません。そして、孝謙上皇が再び即位することとなりました。同一人物が二度即位することを「重祚」と呼ぶのでしたね。二度目の即位では、称徳天皇と呼ばれます。
 称徳天皇は、天皇が現役の僧でもある日本史上唯一の例です。後に出家する上皇が多数いますが、全て「上皇」になってから、つまり天皇の位を退いてから出家しています。
 ちなみに聖武天皇や花山天皇は現役の天皇のまま出家しましたが、その直後に譲位していますから、やはり皇位皇宗に仕える身である天皇が、仏にも仕えるということは原則できないものなのですね。
 称徳天皇はさっそく、乱に関わった人物の懲罰を実施しました。審議の結果、375人もの人間が斬殺刑と決定されました。壬申の乱と比べるとあまりに厳しいものでした。そこで、称徳天皇の側近・和気広虫(わけのひろむし:法均尼ともいう:730~799)が諫言し、このうち大多数が減刑されました。
 天平宝字8(764)年9月22日。藤原仲麻呂が作った唐風の官名が全て元の日本名に戻されました。称徳天皇は、自らを捨てた男、仲麻呂が行った改革を全て否定したかったのでしょう。
 10月9日。淳仁天皇は淡路(兵庫県南あわじ市)へ配流となりました。それから一年が経った天平神護元(765)年10月22日、淳仁廃帝は脱獄を試みますが捕縛され、その翌日に死去します。死因は不明ですが、おそらく殺されたのでしょう。
 さて、こうして藤原仲麻呂の乱は終結しました。
 藤原仲麻呂といえば、吉備真備を左遷するなど専横を極めた独裁政治家とされ、悪役にされることが多い人物です。NHKドラマ『大仏開眼』でも、高橋克典演じる藤原仲麻呂は、ドラマのラスボスとして主人公・吉備真備の前に立ちはだかりました。
 しかし、『続日本紀』では終始仲麻呂が悪しざまに描かれており、恣意的な情報操作の跡を感じます。これが仲麻呂の実像を伝えているとは思えません。
 事実、仲麻呂が実行した政策として、天平宝字2(758)年、雑徭を半減(年60日から30日へ)するとともに、納税開始年齢を1年繰り上げたという事績があります。
 私は、奈良時代を通して、真に民衆のための政策が実施されたのはこのときだけではないかと考えています。仲麻呂は、政敵を容赦なく追い落とす謀略家であったかもしれませんが、その一方で、真剣に国民を救済するための政策を考え、実行した稀有な政治家だったかもしれません。

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