日本人の物語00469【平安末期】平安京への還都
ここで平家の動きに目を転じてみましょう。
治承4(1180)年10月。高倉上皇は病をおして厳島神社へ再度の行幸を行いました。清盛の圧力に応じたのだろうと思われますが、この頃から高倉上皇の体調は思わしくなく、この行幸が命を縮める結果になったのではないかといわれています。
6月2日に福原京を遷都してから数ヶ月、未だに都の整備は思うように進んではいませんでした。人々は帰りたい帰りたいと訴えるばかりで、11月5日には、宗盛が清盛に対して強硬に還都を要求し、激しい口論となりました。いつも父の言いなりになる宗盛にしては大変珍しいことです。
11月23日。驚きの決断がなされました。都を平安京に戻すとの発表がなされたのです。人々が狂喜する中、安徳天皇を始めとする皇族は平安京に戻り、11月26日には平氏一門もまた京へと戻っていきました。清盛が世論に屈したものとみられます。
前述のとおり、清盛の福原京遷都には、貿易立国のための布石という意味合いがありました。その目的が未だ果たせぬまま、半年足らずで都は元に戻されたわけです。
何より驚きなのは、清盛が自らの政策が失敗だったことを認めた点です。これまで自らのビジョンに絶対的な価値を置き、異論を許さなかった独裁者・清盛が、なぜ世論に屈したのか不思議です。
さらには11月30日、議定において左大弁・藤原長方(ふじわらのながかた:1139~1191)が、
「平家の追討は重要だが、同時に徳政も必要である」
と述べ、後白河に政権を返還することと、備前に配流されていた摂政・松殿基房を都に呼び戻すことを提案しました。
これまでの清盛ならば一蹴するような提案ですが、なんと清盛はこれに応じ、後白河は半年間幽閉されていた六波羅泉殿から高倉の院御所に移りました。松殿基房も京へ呼び戻されました。もちろん、後白河と基房の復権は形式だけであって、実務は引き続き清盛が牛耳ってはいたものの、大いなる譲歩です。
思うに、清盛は既に病身にあり、自らの死が近いことを予期していたのではないでしょうか。これまで「権力者が死ぬことで大きな政変が起こる」ということは幾度も起こっていました。天智天皇しかり、嵯峨上皇しかり、鳥羽法皇しかりです。清盛は自らが死んだ後、自らが買った怨恨によって平氏政権そのものが滅ぼされることを懸念して、晩年になってから世論に妥協するよう心掛けたのではないかと考えられるのです。
いかんせん、その清盛の判断は遅すぎました。既に平家は多くの恨みを買っており、最後の最後に妥協したところで、その恨みを減じる効果はありませんでした。平家はあと5年で滅亡を迎えます。
