日本人の物語01300【室町/義持期】治仁王の死
今回から、伏見宮貞成親王(この時点では貞成王)が本格的に登場するのですが、『看聞日記』を読んで私はすっかり貞成親王のファンになってしまいました。この人物がいかに面白いかは今後しっかり描いていきたいと思います。
上杉禅秀の乱と並行して発生した伏見宮治仁王(ふしみのみやはるひとおう:1370~1417)の不審死事件について、ここで取り上げておきましょう。
これまで述べてきたとおり、第四次京都合戦で崇光天皇が南朝方に拉致されたため、その弟の後光厳天皇が即位しました。それ以降、崇光流と後光厳流のいずれが皇位を継いでいくのか、争いが続きました。
結局、後光厳―後円融―後小松―称光と4代連続で後光厳流が皇位を独占することとなり、崇光の子である伏見宮栄仁親王は応永23(1416)年11月20日、失意のうちに死去しました。その後、伏見宮家を継いだのは長男の治仁王でした。ちなみに次男の貞成王は詳細な『看聞日記』を残したことで知られている人物です。
さて、治仁王はどうも素行に問題のある人物だったようです。翌応永24(1417)年2月2日の看聞日記には
「兄宮が連日博打にうつつを抜かしている」
との不満が記されています。父が死去して喪も明けぬうちに博打ばかり打っているとは不謹慎ですね。
ここからは看聞日記の記述に沿って、治仁王の謎の死について語っていきましょう。
この頃、治仁・貞成兄弟は伏見御所が焼亡したため一時的に宝厳院(現在の大光寺:京都市伏見区)に住んでいたのですが、2月7日、見るからに異様な男が宝厳院を訪ねてきました。男は医師だと名乗り、治仁王とは旧知の仲だといいます。治仁王は男を部屋に招き入れ、脈を取らせるなどして、薬をもらっていました。貞成王は訝りながらその異様な男について日記に記しています。
そして問題の2月11日がやって来ました。雨の中、近臣の田向長資(たむけながすけ)が貞成王の元にやって来て、
「兄宮が『退屈だから弟を呼べ』と仰せです。お越しください」
と述べました。貞成王は兄の居室に出向きますが、田向長資は所用があると言って退出したので、一人で兄の部屋に入ります。
部屋に入ると、兄の様子がおかしく、呼びかけても返事もありません。貞成王は慌てて女房や近臣たちを呼びました。治仁王の妾・上臈局(じょうろうのつぼね)は妊娠中で臨月を迎えた体でやって来て、皆と一緒に治仁王の体を抱え込んで薬を飲ませようとしますが、歯を嚙みしめたままで薬が入りません。右手も右足も硬直してまるで動きません。誰かが「これは中風ではないか」と言い出しました。
医師を呼びに行きますが、なかなかやって来ません。加持祈祷も始まりましたが、皆が見守る中、翌2月12日未明、治仁王は遂に息を引き取りました。
「医師を名乗る異様な男」というのは死因に全く無関係で、単なる脳卒中のような気がします。脳卒中って何の前触れもなく突然起こることもあって、怖いですよね。
