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日本人の物語00293【平安中期】承平天慶の乱 豊田から石井へ*

 戦いの後、将門は下野国府(栃木県栃木市)に赴いて戦の原因を釈明しました。国府に対し、下野国内で戦乱を起こしたことを謝罪した上で釈明をしたわけですから、この時点での将門の行動は何ら国家への反逆とはいえません。
 そうした事情もあって、昔の教科書では平将門の乱は承平5(935)年に発生したと書かれていたのですが、現在は天慶2(939)年と修正されています。承平5(935)年に将門が国香を殺害した時点では、単なる坂東平氏の内紛であって中央政府への反逆とはいえないからですね。
 平良兼・良正が将門に敗北したのを受けて、源護は朝廷に平将門を告発しました。内紛の原因は将門方にあるというのです。
 承平6(936)年9月。朝廷は源護と平将門を召還し、審議を行うこととなりました。両者とも朝廷に出向き、自らの正当性を主張しました。
 裁判が続く中、承平7(937)年4月、朱雀天皇が元服したことを記念して内紛問題は「恩赦」となり、双方にお咎めなしとの判決が下りました。内紛をやめて仲良くしろということです。
 ところが同年8月。判決に納得しない良兼・良正が将門への報復を企図します。裁判結果に納得せず相手を攻撃するというのは、ほぼ政府に対する反逆のようなものだと思います。
 良兼・良正は、子飼の渡(こがいのわたし:茨城県下妻市とつくば市の境にある小貝川)にて将門を急襲しました。
 このとき、良兼・良正軍はひどく将門を悩ませました。というのも、良兼・良正軍は高望王と平良将の霊像を奉じていたのです。将門軍としては、尊ぶべき像を相手が掲げているわけで、非常に攻撃しづらい状況です。「なるほど考えたな」といった作戦です。
 しかも将門にとって不運だったのは、将門自身が脚気にかかり歩行困難な状況で戦いに挑まざるを得なかったことです。
 結局将門は敗北し、豊田の居館が焼き討ちされてしまいました。将門は妻子とともに敗走しますが、その途中で妻(良兼の娘)と息子が良兼の手の者に捕縛されてしまいます。
 良兼邸に軟禁された妻は、久しぶりに会った父に対して恨み言を述べ、あくまで夫・将門を支持し続けていたそうです。これを知った良兼の子たちは妹をかわいそうに思い、禁固を解いてこれを逃がしてしまいます。
 将門は脱出してきた妻子と合流し、石井(いわい:茨城県坂東市)を新天地として新たな本拠を築き始めました。石井は豊田から約10km離れているだけで、敵の攻撃を免れるとの安心が十分得られるとは思えない場所ですが、あまり遠くへは行きたくなかったのでしょう。

坂東市民音楽ホールの前にある平将門像。将門は豊田(常総市)から石井(坂東市)に移動してきたわけだが、いずれの地でも愛されている。烏帽子姿とは意外の感がある。2022年7月9日撮影。

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