日本人の物語00292【平安中期】承平天慶の乱 破られた和議*
都にいた平貞盛は、父の不慮の死を知って坂東へ帰郷することとなりました。周囲は皆、貞盛が父の仇を討つものと期待していましたが、貞盛は将門との対決を避けて喪に服し始めました。将門が強すぎて勝ち目がないと思ったのか、はたまた父に正義がない戦いだったと判断し、従兄弟との友情を優先したということなのか、真相は分かりません。
承平5(935)年10月。平良正が兄・国香らの仇を討つため出陣しました。良正軍と将門軍は川曲村(かわわむら:茨城県八千代町)で決戦となり、またもや将門が勝利しました。良正は逃亡し、兄・良兼に助力を仰ぐこととなります。長兄である平国香亡き後、平氏の長老は次兄の良兼ということになりますから、将門は再び長老を敵に回して戦わなければならなくなったのです。
将門が伯父・良兼と対立を深めていく中、貞盛は将門と話し合って和睦することとしました。それどころか、貞盛は父の遺領の管理を将門に依頼してしまいます。父を殺したはずの将門を全面的に信頼するというのです。
貞盛は一族から腰抜けと罵られたことでしょうが、幼なじみである将門を信頼に足る人物と捉えていたようですね。何とも度量の広い人物です。
しかし貞盛以外の平氏一族は、以後も将門を倒そうと、つけ狙い続けました。
平良兼・良正の兄弟は、甥の将門をいかにして倒すか計画を練りました。彼らの立てた計画は、6月の農繁期に将門に奇襲を仕掛けようというものでした。
坂東平氏の兵たちは普段は百姓をしていますから、農繁期は戦を避けるのが慣例だったわけです。良兼・良正の奇襲作戦は当時のタブーを破る卑劣な作戦だったわけですね。(とはいえ、当時はまだ武士道という概念もできあがっていなかったとは思います。)
良兼・良正は、この奇襲作戦に貞盛も加わるよう説得しました。良兼・良正があまりに強く説得したため、貞盛はここで将門との和議を破って奇襲に参画してしまいます。こういったところ、貞盛は将門に比べると軽薄かもしれません。
承平6(936)年6月。平良兼・良正は横芝を出発し、将門の本拠地・豊田に向かいました。これを知った将門は下野国境で良兼・良正の軍を待ち構え、奇襲をかけました。
このとき将門の戦いぶりはまさに伝説で、たった100騎で良兼・良正軍2300騎を倒したと伝えられています。いかな奇襲といえども、本来どう考えても勝てる戦力差ではありません。
さすがに誇張があるとは思いますが、将門軍が異様に強かったのは事実なのでしょう。

