日本人の物語01465【室町/西国/大乱前夜】畠山義就登場
数年前にベストセラーになった呉座勇一氏の『応仁の乱』という本では、畠山義就がほぼ主人公でした。
ここで、後の応仁の乱の原因となる畠山家の家督問題について説明しておきましょう。
畠山持国には長く実子が産まれなかったため、弟の持富(もちとみ:?~1452)の子・弥三郎(やさぶろう:1441?~1459)を養子に迎えていました。家督は弥三郎に継がせて、持富にはその後見人になってもらおうと思っていたのです。
ところが、持国はその約束を翻します。
持国には12年前に側室が産んだ「次郎」という子がいたのですが、持国は「私の子ではない」と言って認知を拒否していました。ところが文安5(1448)年11月、持国は12歳に成長した次郎と初めて対面するや否や、その風貌から
「間違いなく実子だ」
と断定し、次郎に家督を譲ると言い出したのです。
畠山家の家臣団は慌てました。守護代の神保家・遊佐家を始め、畠山被官でもある大和国人・成身院光宣までもが
「一度決めた家督を翻すべきではない」
と諫めますが、持国は聞く耳を持ちません。
持国はさっそく次郎を連れて義政に謁見し、次郎に義夏(よしなつ)という名を授かりました。将軍家の通字である「義」は、本来なら斯波武衛家にしか許されないものですから、破格の待遇です。恐らくこの命名劇は当時12歳の義政ではなく、持国と仲の良い日野重子が企てたものでしょう。義政は母重子の命令に逆らえなかったものと思われます。
義夏はその後名を改め、畠山義就(はたけやまよしなり:1437?~1491)と名乗ることとなります。これが応仁の乱を駆け抜けた風雲児・畠山義就です。(義就は「よしひろ」と読む説もあります)
当主たる持国が義就を指名する一方で、家臣団は引き続き「弥三郎こそが家督継承者だ」と主張し続けました。この畠山家の家督争いこそが、複雑怪奇な応仁の乱の第一原因といってよいでしょう。
文安6(1449)年4月16日。足利義政は遂に元服し、4月29日に征夷大将軍に宣下されました。といっても満13歳の義政自身が政治的判断を下すことは困難で、畠山持国と日野重子が幕政を主導し、それに細川勝元と山名宗全が抵抗する構図だったと考えられます。
義政というと、無気力で政治に関心のない青年将軍のイメージがありますが、この時点では極めて積極的で政治意欲の強い人物でした。後に、政治が上手くいかず気力を失って出奔していた期間があるのですが、そのエピソードのせいで無気力なイメージが定着してしまっただけで、決してずっと無気力だったわけではないのです。この時点での義政は、自ら政務を執りたいのに持国・重子の指示に従わざるを得ず、やきもきしていたと考えられます。
後で何度も出てくるので、「弥三郎VS義就」という構図をよくよく記憶に留めていただければと思います。
