日本人の物語00717【鎌倉後期】嘉元の乱
嘉元3(1305)年4月22日。得宗貞時の館が火事に遭い、家人たちが命からがら脱出するという一幕がありました。貞時は館におらず無事でしたが、家を失ったため急遽執権師時の館に移ることとなりました。貞時がいかに師時を信頼していたかが見て取れます。
この火事との関連は不明ですが、4月23日に「嘉元の乱」と呼ばれる大事件が起こります。連署・北条時村(ほうじょうときむら:1242~1305)が内管領・北条宗方(ほうじょうむねかた:1278~1305)に暗殺されたのです。
原因など詳細が記録されておらず、推測するほかありません。
関係者のこのときの年齢を見ていくと、得宗貞時が33歳、執権師時が30歳、連署時村が63歳です。貞時からすると、「執権師時を傀儡として操ろうとしていたのに、連署時村が実権を握ろうとしていて上手く制御できない」といった状況があったのかもしれません。
ところがこの直後の5月2日、貞時は
「時村殺害は私の命令ではない」
と発表し、4日には内管領・北条宗方を誅殺する命令を出しました。これに従い、北条一族の大仏宗宣(おさらぎむねのぶ:1259~1312)が宗方を殺害し、この事件は幕を閉じました。
この事件には複数の解釈があり得ます。一つは、貞時が時村を殺害しておきながら、さらに気に入らない別の親類・宗方をも殺害した二重暗殺事件とする解釈。
もう一つは、貞時が時村による権力争奪を警戒して時村を殺害したところ、北条一族からの反発があまりに強かったため、泣く泣く自らの側近である宗方をスケープゴートにして死罪とし、責任逃れをするほかなかったとする解釈。
歴史学者の間では、後者の説が有力なようです。
というのも、この事件以降、貞時は政務に関心を示さなくなり、寄合に参加せず酒浸りの生活を送るようになったと記録されているのです。
徳治3(1308)年8月には、貞時は奉行人から
「寄合に少しでいいから参加いただきたい」
「毎日の酒宴を少し減らしてはいかがか」
などと諫言されています。
こうして、最高権力者であるはずの得宗貞時は政務を放棄し、執権師時など北条氏の親類や長崎氏らの御内人の主導する寄合によって幕政がかろうじて機能している状態となりました。
鎌倉幕府はいよいよ崩壊へと向かっていきます。
