日本人の物語01408【信広渡海】安藤氏の歴史 出羽平定
青森県の三内丸山遺跡の案内人が「青森のピークは縄文時代で終わりました」というのを持ちネタにしているそうですが、Ⅹ上で「いや、十三湊が栄えていた時代もあるぞ」と反論している人がいるのを見ました。詳しい人同士のやり取りは見ていて面白いですね。
安藤氏の四代(季久・師季・法季・盛季)について名前だけ紹介しましたが、もう少し詳しく取り上げていきましょう。
鎌倉幕府滅亡後、安達高景・名越時如といった幕府高官が湊ノ城(秋田県秋田市)に立て籠もり、最終的に持寄城(青森県弘前市)で鎮圧されたことについては既にお話ししました(00825回参照)。その後、延元5/暦応3(1340)年に南朝方が北畠顕信を「鎮守府将軍」に任命し、多賀城(宮城県多賀城市)への入部を命じました。といっても多賀城はまだ北朝方の手にありましたから、北畠顕信はとりあえず葛西清貞(かさいきよさだ:?~1350)の日和山城(宮城県石巻市)に入部し、根城(青森県八戸市)の南部政長(なんぶまさなが:?~1360)に多賀城奪回を命じました。
興国2/暦応4(1341)年2月。南部政長は北朝方の岩崎城(岩手県北上市)に攻めかかりました。被害を受けた北朝方の石塔義房は、南部政長が南下している間に本拠地の根城を攻め落とそうと、南部に恨みを持つ津軽(青森県西部)の安藤師季と曽我貞光(そがさだみつ)に根城奇襲作戦を立てさせました。
ここで安藤師季が登場しました。この時点で安藤師季の本拠地は藤崎城だったのか十三湊だったのか分かりませんが、いずれにせよ南部政長とは敵対してたびたび戦っていたとみられます。
安藤・曽我連合軍は6月から根城の攻撃を開始しました。この戦いは興国3/康永元(1342)年秋まで続きました。結局、南朝方の南部政長は敗れ、だいぶ南にある宇津峰城(福島県郡山市と須賀川市の境界)まで敗走することとなりました。
このように、安藤氏は北の果てともいえる青森県西部を拠点としていながら、南北朝の動乱に深く関わっていたようです。
さらに室町時代に入ると、師季の孫の盛季の時代となりました。
既に南北朝は合一されていましたが、陸奥国にはなおも南部氏を始めとする南朝勢力がいました。応永年間(1394~1428)の始め頃、幕府は出羽国でなおも反逆している南朝勢力を討伐するよう、安藤盛季に命じました。
盛季は弟の鹿季(かのすえ:?~1423)を派遣し、小鹿島(秋田県男鹿市)から上陸させて敵を見事蹴散らし、出羽を平定させました。これ以降、安藤鹿季は「安東鹿季」と漢字表記を変え、秋田湊(秋田県秋田市)に住み始めます。秋田湊は十三湊よりも京に近いため「上国(かみのくに)」と呼ばれました。
これ以降、兄の盛季の系統を「下国(しものくに)安藤氏」「十三湊安藤氏」などと呼び、弟の鹿季の系統を「上国安東氏」「湊安東氏」などと呼ぶようになります。
「安藤」と「安東」の使い分けはさほど厳密なものではないらしく、著者によって使い方はバラバラです。
