日本人の物語01170【南北朝末期】楠木正儀、北朝に寝返る
北朝から南朝への寝返りが大量発生していましたが、その逆もそこそこの数が発生しています。それにしても総大将の裏切りとは・・・。
正平23/応安元(1368)年12月30日。義満は10歳の若さで征夷大将軍となりました。晴れて3代将軍となったわけです。
義満と頼之に課せられた使命は南朝との抗争を早く終わらせることでしたが、義満は将軍就任早々、幸先の良いスタートを切ることができました。というのも、翌々日に当たる正平24/応安2(1369)年1月2日、南朝の総大将であった楠木正儀が北朝に投降してきたのです。
楠木正儀といえば、かねてより北朝との融和を説いていた人物でしたね。正平6/観応2(1351)年5月時点で南朝を見限るかのような発言をしていましたし(01028回参照)、細川清氏による京都攻撃作戦にも批判的でした(01130回参照)。北朝方の佐々木道誉との心温まる交流もありました(01132回)。いかにも寝返りそうな伏線はいろいろあったのですが、遂に本当に寝返ってしまったのです。理由はよく分かっていませんが、恐らく強硬派の長慶天皇とそりが合わなかったためとみられます。
細川頼之にとって楠木正儀は父・頼春を殺した仇に当たるのですが、頼之はこの投降を快く受け入れたばかりか、恩賞として河内・和泉の守護職を与えました。戦乱を終わらせるためなら個人の恨みを飲み込もうとする姿勢は、宰相としてすばらしいですね。
南朝方は総大将の思わぬ裏切りに怒り狂ったことでしょう。ちょうど裏切りの直前に当たる前年12月24日に、長慶天皇は住吉から吉野へと移り住んでいます。恐らく、楠木党の領地である住吉が敵陣となってしまい、住めなくなったためでしょう。南朝方は、正儀に代わって楠木家の親族である和田正武を総大将に据え、同じく親族の橋本正督(はしもとまさたか)に河内・和泉守護の職を与えました。といってもこの2国は正儀に支配されていたので名ばかりの守護でしょうが。
驚愕の裏切り劇から3ヶ月後の3月16日、和田正武・橋本正督が河内・和泉で挙兵し、かつての主である正儀と戦うこととなりました。この戦いにおいて、長慶天皇は自ら吉野を出て河内国の天野行宮(大阪府河内長野市)にまで進出しました。楠木党の士気を鼓舞するためとみられます。
頼之は正儀を援護するため、赤松光範・細川頼元(ほそかわよりもと:1343~1397)を派遣して戦わせましたが、ここでは北朝方が敗退することとなりました。長慶天皇自ら出陣したことが功を奏したのかもしれません。
ちなみに細川頼元は頼之の弟で、養子でもあります。頼元は実子に恵まれなかったため弟に家督を譲ることとしたのです。
局地戦で勝利したとはいえ、正儀の寝返りは南朝方にとって相当に大きな痛手だったと思われます。南朝方の凋落は明らかです。
