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日本人の物語01373【室町/義教期】持氏VS憲実

幕府と鎌倉府。何度も「喧嘩しては和解する」を繰り返しており、読者から「もう結果だけ教えてくれよ」という声が聞こえてきそうです。

 幕府と鎌倉府とは一度和睦したはず(永享の都鄙和睦)ですが、その後義教の評判が地に堕ちたこともあり、チャンスと思った持氏は再び反旗を翻します。
 持氏が最初に手をつけたのは、幕府の手足として動く常陸半国守護・山入祐義を討伐することでした。永享7(1435)年8月に持氏に派遣された岩松持国が、山入派の長倉義景が籠もる長倉城(茨城県常陸大宮市)を攻撃すると、山入祐義と篠川公方満直は幕府に救援を要請しました。幕府は信濃守護・小笠原政康を派遣しますが間に合わず、10月末に長倉城が陥落してしまいました。持氏の勝利です。
 幕府方の小笠原政康に更なる試練が襲います。翌永享8(1436)年10月、北信濃の国人・村上頼清(むらかみよりきよ)が反乱を起こしたのです。村上は幕府軍と戦うに当たって鎌倉府に支援を求め、持氏はそれに応じて桃井憲義(もものいのりよし)を派遣しようとしますが、関東管領・山内上杉憲実が猛反対しました。これ以上幕府を刺激するなというわけです。
 持氏は諫言を無視して軍を派遣しますが、憲実もまた軍を派遣して立ちはだかりました。あわや鎌倉公方と関東管領の直接対決となりそうな状況でしたが、ギリギリのところで持氏は兵の派遣を諦め、どうにか事態は収まりました。助力が得られなかった村上頼清は、11月に小笠原政康に敗れます。
 諦めの悪い持氏はなおも村上頼清を支援しようと企み、永享9(1437)年4月初旬、側近の榎下上杉憲直に信濃出兵を命じました。
 憲実はもちろん怒り、関東管領を辞職して自邸に引き籠もってしまいました。その後、「憲直の軍勢は実は憲実を討伐するためのものらしい」との噂が流れ、鎌倉は騒然とし、憲実も戦に向けた準備を始めました。事態を収拾するため、持氏の母・大御所(おおごしょ)が憲実の邸宅に赴いて説得を重ね、その甲斐あって両者とも和平の道を探り始めます。
 4月中旬。持氏は衝突を回避するため側近の憲直を藤沢(神奈川県藤沢市)に退去させ、7月27日には更に側近の一色直兼を泣く泣く三浦(神奈川県三浦市)に退去させて譲歩を見せました。しかし譲歩した一方で、持氏は強硬にも憲実の側近・大石憲重(おおいしのりしげ)と長尾景仲(ながおかげなか:1388~1463)の引退を求めました。憲実はこれを拒絶し、8月上旬に憲直を討つべく藤沢に出兵するなど和平が危ぶまれる一幕もありました。
 8月中旬になって、持氏自ら憲実邸に赴いて話し合うことでどうにか事態は収拾しました。持氏の要請により憲実は関東管領に復帰し、これにて一件落着と言いたいところですが、憲実は発給文書への署名を拒否し続けたので未だに火種はくすぶっています。
 持氏と憲実がとりあえずは矛を収めたので、勝てる見込みを失った村上頼清は小笠原政康に降伏しました。これにて信濃の戦乱も収束しました。

長尾景仲というのが何気なく登場しましたが、実はかなりの重要人物です。是非ご記憶ください。

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