見出し画像

日本人の物語01452【室町/西国/大乱前夜】斎藤氏と富島氏

富島氏の人物は名前が伝わっていない人が多いです。

【③美濃国における斎藤氏と富島氏の争い】
 続いては美濃国の内紛を見ていきましょう。
 美濃守護は土岐持益が務めていましたが、守護代の座をめぐって土岐家の有力家臣である斎藤氏と富島氏が争うこととなります。
 文安元(1444)年閏6月19日。斎藤宗円(さいとうそうえん:1389~1450)が、京の土岐家の屋敷で守護代の富島氏を殺害しました。はっきりと記録に残ってはいませんが、この殺害はどうも土岐持益の了解を得て(むしろ命令を受けて?)行われたものだったと推察されます。
 このとき、富島一族の中で難を逃れたのが富島八郎左衛門(とみしまはちろうざえもん)という人物でした。富島八郎左衛門は管領・畠山持国にこの事件の発生を知らせ、助けを求めましたが相手にしてもらえません。持国からみると、土岐家当主が家臣を誅殺するのは自由であって、幕府として口を出すべき話ではなかったのでしょう。
 富島八郎左衛門はやむなく美濃に下国し、味方を募ります。7月10日には垂井(岐阜県垂井町)で斎藤軍と戦い、勝利しました。
 富島八郎左衛門は更に8月6日、10日の両日に斎藤氏の館を攻めますが、決定打となるダメージを与えるには及ばなかったようです。そうこうするうちに、主君である土岐持益とライバル斎藤宗円が美濃に到着し、両軍の勢力は拮抗するようになり、戦闘は膠着状態となりました。そのうちに美濃守護代の座は富島氏から斎藤氏へと代わりました。
 内紛は2年ほど膠着していましたが、文安3(1446)年7月5日に大きく動きました。斎藤宗円が富島氏の陣を攻め、戦死者を数百人出すほどの大合戦となったのです。しかし決着をつけるには至らず、両者はさらに宝徳元(1449)年9月10日にも大きな合戦を起こしますが、これまた勝負がつきません。
 宝徳2(1450)年9月1日になって、斎藤・富島両氏の争いは合戦ではなく暗殺という形で幕を下ろしました。斎藤宗円が京の近衛油小路で、富島氏の手の者により殺害されたのです。
 とはいえ、主君たる土岐家が斎藤家を守護代と認めている以上、人事は変わりようがありません。美濃守護代は宗円の子・斎藤利永(さいとうとしなが:?~1460)に引き継がれました。この斎藤利永は父の仇である富島氏を討って守護代の座を守り抜き、加納城(岐阜県岐阜市)を築くなどして繁栄を極めます。
 その後も美濃守護代は引き続き斎藤家から任命され、(血縁関係は途中で途切れるものの)戦国時代の斎藤道三へとつながっていくこととなります。

斎藤道三までは相当な紆余曲折がありますが、とりあえず「つながってますよ」ということは言っておきたかったので書いておきました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集