日本人の物語01294【室町/義持期】上杉禅秀の乱 禅秀挙兵
現在の鎌倉を歩いていると、「よくこんな狭いところで戦ったなあ」と驚くほどの狭さです。車で走っていると特に道の狭さと危険を実感できます。
いよいよ東国に蒔かれた火種が爆発するときが来ました。上杉禅秀の乱です。
この事件は応永23(1416)年10月2日に犬懸上杉禅秀が鎌倉公方持氏を襲撃するところから始まるのですが、その前年の応永22(1415)年4月25日にちょっとした伏線がありました。持氏が、常陸国の越幡六郎(おばたろくろう)が出仕してこないことを理由に、所領を没収したのです。
この越幡六郎は禅秀の家人だったため、禅秀は抗議の意を込めて自邸に引き籠もりました。持氏はこれに怒り、5月2日に関東管領職を禅秀から取り上げ、山内上杉憲基に渡したのでした。かねてより対立関係にあった「足利持氏・山内上杉憲基VS足利満隆・犬懸上杉禅秀」という構図が、持氏から喧嘩を売ったことで本格化してしまったのです。
もう一つ、持氏と禅秀の仲が険悪となった原因として伝えられている出来事があります。持氏の母は一色満頼(いっしきみつより)の娘で、そのあまりの美貌にぞっこんになった足利満兼が無理やり妻にしたとの伝説もあるほどの有名な美女でした。その美貌は、満兼が死去して未亡人となった後も健在であり、禅秀は夢中になってしまい、その未亡人を呼び出して手籠めにしたとの噂が立ったのです。母が凌辱されたとの噂を聞いた持氏は激怒し、禅秀から関東管領職を剥奪しましたが、その後に手籠め云々という話は濡れ衣であったことが発覚しました。禅秀はひどく持氏を恨んだといいます。
一見すると胡散臭い話ではありますが、伏見宮貞成王の『看聞日記』に記された話であり、そこそこ信憑性があります。
ともあれ、持氏方と禅秀方の武力衝突が始まります。このとき真っ先に禅秀方についたのが山入与義でした。山入家といえば、佐竹本家が上杉憲定の子・義人に乗っ取られたことを恨みに思っている佐竹氏庶流の一族であり、この乗っ取り劇に賛同した足利満兼・持氏父子をも恨んでいますから、当然に禅秀方に味方することを選びました。一方、佐竹義人率いる佐竹本家はもちろん持氏方を支持しています。
応永23(1416)年10月2日。足利満隆を大将とし、山入勢を含む数千騎が鎌倉に押し寄せ、公方御所(現在の浄妙寺)を急襲しました。満隆とは前述のとおり持氏の叔父で、鎌倉公方の地位を狙っていた人物です。
10月3日。持氏は木戸将監(きどしょうげん)の手引きで佐介(さすけ:現在の鎌倉市佐助稲荷の周辺)の上杉憲基邸へと逃れました。憲基邸を守るべく、佐竹義人らが甘縄口を固めます。
現在の鎌倉市の住所地番には「山ノ内」「扇ガ谷」「佐助」などがあります。しかし「犬懸」という住所地番はなく、「二階堂」に吸収されたようです。
