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日本人の物語00218【奈良】聖武天皇放浪 恭仁京遷都

 さて、聖武天皇が平城京を放り出して放浪し、遷都と大規模工事を繰り返し、民を苦しめたことをお話ししなければなりません。時系列に沿ってまとめていきます。
 天平12(740)年10月29日。藤原広嗣の乱の最中に、聖武天皇は「行幸に適した時期ではないが、しばらく都を離れる」と述べ、当てもなく東へ旅を始めました。
 理由はよく分かっていません。広嗣が平城京に攻め込んでくるのを恐れたのかもしれませんが、この時点で広嗣は既に逮捕されています。その情報がまだ入って来ていなかったとしても、あまりに恐れ過ぎです。聖武天皇の情緒が不安定だったためかもしれません。
 聖武天皇は伊勢神宮に参拝後、名張、鈴鹿、桑名、不破、野洲などを転々とします。このように天皇が都を離れている間に、藤原広嗣の乱が平定されたとの報告が入りました。
 乱が平定された後も、なお聖武天皇はあてもない旅をやめません。
 12月15日。恭仁(くに:京都府木津川市)に留まっている間に、「ここを都とする」との詔を出しました。恭仁京の遷都です。余程ここが気に入ったのでしょうが、この遷都は何らの計画性のないものだったと考えられています。
 聖武天皇の気まぐれに付き合う形で、光明皇后と元正上皇も恭仁京にやって来ました。都の造営が開始されます。造営に使われる民にとっては、いい迷惑です。
 天平13(741)年2月14日。国分寺・国分尼寺建立の詔が出されました。国ごとに寺と尼寺を作ろうというのです。聖武天皇がいかに仏教を厚く信仰していたか分かりますね。しかしこれも大きな財政負担となりました。
 天平14(742)年8月11日。恭仁京がまだ完成していないにもかかわらず、聖武天皇は紫香楽(しがらき:滋賀県甲賀市)に離宮を造営するよう指示しました。宮殿の造営と別荘の造営が同時並行で行われたのです。気まぐれな指示により、民にとってますます大きな負担となったことが推察されます。
 天平15(743)年10月15日。聖武天皇は大仏建立の詔を発しました。「日照りによる凶作、大地震、天然痘の流行などは朕の不徳のせいだ」と考えた聖武天皇は、恭仁京の造営を中止して、その代わりに大きな仏の像を作り、仏の力にすがろうというのです。いくら恭仁京の造営が中止されたからといって、それと同等の築造工事を始めるわけですから、何らの負担軽減になりません。詔の中には、「朕の権力をもって作らせるのはたやすいが、かえって民を苦しめることになる」との記述もあり、強制労働ではなく応募してきた者のみを労働させたとされていますが、実際はどうだったのでしょうか。やはり強制的に労働させられた者が多かったのではないかと思います。
 さて、大仏は紫香楽宮の近くに建立することとなりました。政府は土木工事で名を馳せた僧・行基(ぎょうき:668~749)を招致し、大仏建立に当たらせました。
 現在、近鉄奈良駅前には行基像が立ち、待ち合わせ場所として親しまれています。

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