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日本人の物語01560【室町/西国/応仁の乱】斎藤妙椿侵攻

東常縁の最も有名なエピソードが始まります。

 応仁3(1469)年には、東常縁が和歌と引き換えに所領を返してもらったという有名なエピソードがあります。それを説明するために2年前に遡ってみましょう。
 美濃国は守護・土岐氏が治めており、守護代の座をめぐって斎藤氏と富島氏が争っていました。斎藤利永が富島氏を破って守護代となり、利永の弟の斎藤妙椿が実権を握っていました。妙椿は主君・土岐成頼とともに西軍に属しました。
 しかし隣国の近江守護・京極持清は東軍方であるため富島氏を支援し、美濃で内紛が始まります。
 応仁元(1467)年9月8日、京極氏の支援を得た富島氏が挙兵し、土岐方の東大寺城(岐阜県大垣市)に迫りました。しかし土岐成頼も斎藤妙椿も在京して応仁の乱を戦っており、すぐに救援には行けません。
 9月13日。東軍・富島氏は鷺田島(岐阜県瑞穂市)まで進出し、一連の戦いの中で西軍・土岐方の村山重綱(むらやましげつな:?~1467)が戦死しました。その後、西美濃の大半は富島氏の占拠下に置かれてしまいます。それでも妙椿は京を離れるわけにいかなかったらしく、手紙で指示を送るばかりです。このとき、土岐方としてかろうじて残っている革手城(岐阜県岐阜市)について妙椿が補強工事を命じる書状が残っています。
 富島氏の攻勢はまだまだ続きます。応仁2(1468)年6月、革手城が未だ補強工事中のところに、富島氏が攻撃を加えてきたのです。妙椿の味方だったはずの長江景秀(ながえかげひで)・元景(もとかげ)父子が寝返り、富島氏を手引きしたものでした。この長江父子は居益谷(いますだに:岐阜県関ヶ原町)を拠点とする国人です。
 裏切りが発生したことで妙椿は疑心暗鬼に陥り、山田庄(岐阜県郡上市)篠脇城主の東氏数(とううじかず:?~1471)までもが富島氏と呼応しているのではないかと疑い始めました。8月には東氏数討伐の軍を送り込み、9月6日には篠脇城を陥落させてしまいます。このとき、東家に伝来していた和漢書が焼失してしまいました。さらに10月2日には、妙椿は裏切り者の長江父子を討ちました。
 妙椿軍に敗れた東氏数は命からがら下総に逃亡し、弟の常縁を頼りました。
 東常縁がここで再登場しました。東常縁といえば古今伝授(01522回参照)を受け継いだ和歌の名手であり、武士でありながら一流の文化人でもありました。この時点では下総で千葉家の内紛を処理しています。
 この東常縁が、得意の和歌を駆使して篠脇城を取り返すこととなるのです。

同時代の人々からすると斎藤妙椿は実力者で有名人だったでしょうが、東常縁はどの程度の知名度だったのでしょうね。妙椿の方が知名度は高かったのではないでしょうか。今となっては東常縁の方が高校日本史教科書に載る有名人ですが。

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