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日本人の物語00176【飛鳥】蘇我石川麻呂の参画

 中臣鎌足が中大兄皇子に近づいたのは、蹴鞠の会のさなかだったと伝えられています。
 飛鳥寺で催された蹴鞠の会で、中大兄皇子が競技中、うっかり靴を飛ばしてしまいました。これを拾ったのが中臣鎌足でした。鎌足は中大兄皇子に靴を渡しながら、
「少し歩きませんか」
と誘い出します。そして蘇我氏への思いを打ち明け合ったのです。
 中臣鎌足と中大兄皇子は、吉野山にある南淵請安の塾で学び始めました。その道すがら、蘇我氏を倒すための謀議をめぐらしたといいます。
 さて、中臣鎌足の提案により、入鹿の従兄に当たる蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ:?~649)が仲間に引き入れられることになりました。蘇我氏も一枚岩ではないらしく、宗家の蝦夷・入鹿だけが権勢を誇っているのであって、傍系の石川麻呂はそれを快く思っていなかったようですね。
 石川麻呂を仲間に引き込むため、中大兄皇子は石川麻呂の長女を娶ることになりました。この長女の名は残っていません。当時としては、婚姻によって同盟を組むのが常識だったのでしょう。
 ところが結婚式当日、その長女が恋人の蘇我日向(そがのひむか:石川麻呂の弟)にさらわれてしまいます。石川麻呂はすっかり困ってしまうのですが、この窮地を救ったのが次女の遠智娘(おちのいらつめ)でした。遠智娘が
「それでは私が嫁ぎましょう」
と言って、中大兄皇子と結婚することとなるのです。この時代の結婚は、個人と個人というより、家と家をつなぐためのものですから、姉妹のうち誰が嫁いでもよかったのでしょう。
 さらにその後、石川麻呂の三女の姪娘(めいのいらつめ)もまた、中大兄皇子に嫁ぐことになりました。中大兄皇子と石川麻呂の同盟は、ますます盤石なものとなります。
 ちなみに、中大兄皇子と遠智娘との間には、2女1男が産まれます。
・大田皇女(おおたのひめみこ:?~667)
・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ:後の持統天皇:645~703)
・建皇子(たけるのみこ:651~658)
 このうち、建皇子は生まれながらにして言葉を話せなかったと言われています。夭折してしまい、皇位を継ぐことはできませんでした。
 一方、中大兄皇子と姪娘の間には、2女が産まれます。
・御名部皇女(みなべのひめみこ:660~?)
・阿閇皇女(あへのひめみこ:後の元明天皇:661~721)
 この中で特に覚えておいていただきたいのは、鵜野讃良皇女と阿閇皇女ですが、彼女らが活躍するのはもう少し後のことになります。

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