日本人の物語00422【平安後期】平治の乱 日本一の不覚人
清盛は、信頼に屈するふりをして、その裏で多数派工作を行い、味方を着々と増やしていました。
調子に乗った信頼は、反対派を次々と処刑する案を作り、これを陣定(公卿らの会議)にかけようと、平治元(1159)年12月19日、会議を招集します。まさにやりたい放題です。
ここで堂々と信頼に敵対する人物が現れました。藤原光頼(ふじわらのみつより:1124~1173)です。光頼は、いつもより上席に座っている信頼を見て、堂々と信頼よりもさらに上席に座り、「今日は何の会議かね」と尋ねました。光頼は重ねて、
「私は死刑にされると聞いた。死刑の対象者を聞くと優秀な方々ばかりで、その中に私が入っていたのは実に名誉なことだ」
と、信頼を痛烈に批判しました。一同は返す言葉もありませんでした。
その光頼の弟が、藤原惟方です。二条親政派で、この度のクーデターに参加していた人物ですね。光頼は惟方を激しく叱責し、事態収拾に協力するよう指示しました。これを受け、経宗・惟方の二人は、信頼を裏切り鎮圧する側へ動き始めます。
12月25日。清盛は遂に動き始めました。経宗・惟方の手引きを受けて、清盛方の兵を派遣し、幽閉されていた後白河上皇・二条天皇を脱出させたのです。このとき、二条天皇は目立たないよう女装して脱出したといいます。
後白河上皇は仁和寺に、二条天皇は清盛の邸宅である六波羅に、それぞれ逃れることとなりました。平家の者たちは「六波羅が皇居になった」と喜んだといいます。
これにより、平氏が官軍となり信頼が賊軍となりました。事態を重く見た源頼政は、ここに来て義朝を裏切り、平氏方につくことを決めました。
このとき、信頼は連日開催していた宴のため酔い潰れており、上皇・天皇の脱出に全く気づきませんでした。事態が切迫していることを知った藤原成親が慌てて信頼のもとへやって来て、
「上皇は仁和寺、天皇は六波羅にいると聞きました」
と伝えます。油断し切った信頼は、
「まさか。経宗と惟方によく言い聞かせてあるから、そのようなことがあるはずがない」
と答えますが、成親が
「まさにその二人が手引きして脱出したと聞いています」
と言うと、信頼は怒りわめき、「このことを外部に漏らすな」と厳命しました。
漏らすなと言われても、既に上皇・天皇の脱出は皆に知られていて、知らぬは信頼ばかりでした。宴や除目にかまけて、肝心の上皇・天皇の監視を怠った信頼に、義朝は呆れかえって「信頼は日本一の不覚人だ」と罵ったといわれています。
