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日本人の物語01636【室町/西国/六角征伐】文明美濃の乱

普通は元号をつけて「○○の乱」と呼ぶのですが、文明期は乱が多すぎるので「文明○○の乱」と地名も付けて呼ばないと何が何だか分からなくなってしまいます。

 既に述べたとおり、応仁の乱終結後の義視は美濃の土岐成頼・斎藤妙椿のもとに滞在していました。文明10(1478)年7月10日に義政は義視を赦免し、帰洛するよう呼びかけましたが、義視は美濃に滞在し続けました。それだけ兄弟仲が気まずくなっていたのでしょう。
 その義視の世話人であった斎藤妙椿は、文明12(1480)年2月21日に隠居先の顔戸城(ごうとじょう:岐阜県御嵩町)で死去しました。妙椿死去の知らせを聞いた近衛政家は、日記『後法興院記』に
「天下のために然るべし(世の中のためには良いことだ)」
と記しており、妙椿が未だに幕府に逆らう勢力として忌み嫌われていたことが分かります。
 また、当時の公家の日記をみると
「妙椿死去により、土岐氏と美濃国内の者が義視に背くのではないか」
と噂が流れたと記されています。義視の存在は美濃にとって負担になりこそすれ、ほとんど利益にならなかったのでしょう。しかし、噂に反して妙椿の後継者・斎藤利国(さいとうとしくに:後の斎藤妙純:?~1497)がしっかり義視を支えました。
 妙椿には男子がおらず、甥の利国を養子にしていたのですが、その利国と争ったのが兄の利藤でした。美濃守護代に任じられているのは利藤なのに、主君の土岐成頼が妙椿の遺言に従って利国ばかり重用することに不満を抱いたのです。
 妙椿の死から間もない5月11日、利藤・利国兄弟は寺社本所領をめぐって内紛を始めました。利国が
「父・妙椿の得た本所領の年貢は全て寺社に返還する」
と述べて領民の人気を得たのですが、その本所領の年貢を押領することで利益を得ていた利藤はこれに猛反発しました。両者が激しく争った結果、利藤は敗北して11月には近江六角氏を頼って逃亡していきました。
 斎藤利国は配下の石丸利光(いしまるとしみつ:?~1496)を派遣して利藤討伐に当たらせました。石丸に追い詰められた利藤は、近江をも放棄して京に潜伏することとなりました。この一連の戦いを「文明美濃の乱」といいます。
 文明美濃の乱に勝利した利国は守護代となり、出家して「妙純」と名乗り、娘2人を京極高清(乙童子丸が元服したもの)と朝倉貞景(あさくらさだかげ:1473~1512)に嫁がせました。貞景は氏景の子で朝倉家の次期当主ですから、これで近江・越前を味方につけたこととなり、斎藤妙純の美濃支配は盤石なものとなりました。
 こうして美濃では守護土岐家が凋落し、守護代斎藤家が躍進していきました。越前で斯波家が凋落して朝倉家が躍進したり、尾張で斯波家が凋落して織田家が躍進したのと同じ構図です。
 なお、利藤は文明19(1487)年5月に妙純と和睦して美濃に戻り、守護代に再任したものの、もちろん傀儡でしかありませんでした。

守護代・斎藤氏が権力を握ったわけですが、斎藤道三の登場はもうしばらく先です。

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