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日本人の物語00184【飛鳥】37代斉明天皇

 孝徳天皇崩御後、中大兄皇子が即位するのかと思いきや、彼は引き続き皇太子の座にとどまることになりました。やはり皇太子の立場の方が何かと身軽で動きやすいということなのでしょう。
 斉明天皇元(655)年1月3日。退位していた皇極天皇が重祚(ちょうそ)します。「重祚」とは、同一人物が二度即位することを意味します。歴史上2例しかありません。重祚した後の名を斉明天皇といいます。
 斉明天皇は、再び飛鳥板蓋宮を本拠としました。皇極天皇のときと同じ宮ですね。しかし即位後まもなく飛鳥板蓋宮が焼失し、斉明天皇は一旦、飛鳥川原宮に遷ります。政治への不満から放火されたのかもしれません。
 斉明天皇は困ったことに、工事をひどく好む人でした。
 飛鳥の小墾田(おわりだ)の地に新たな宮を築こうとしたのですが、材木が腐ってきたため工事を諦め、今度は岡本に築造を開始しました。
 斉明天皇2(656)年。岡本の工事が完成し、斉明天皇は後飛鳥岡本宮(こうあすかおかもとのみや)に遷りました。岡本は亡き夫・舒明天皇が宮を築いた地であるため、選んだものと考えられます。
 さらに同じ頃、離宮として両槻宮(ふたつきのみや)と吉野宮(よしののみや)をも築造することとなりました。両槻宮では石上山(いそのかみやま)から石を運んで大きな石垣を作ろうとしましたが、十万余人を用いても完成しませんでした。作りかけのまま終わった石垣を、人々は「狂心の渠(たふれごころのみぞ)」と呼んで批判したと書かれています。天皇が狂って作ったものだというのです。すさまじい批判ですね。
 斉明天皇が次々企画した土木工事は、ひどく民を苦しめたようです。それにしても工事に十万余人を動員したというのは、さすがに誇張でしょう。
 さて、斉明天皇の時代、斉明天皇自身はどの程度権力を持っていたのでしょう。孝徳天皇の時代にあれほど権勢を誇っていた中大兄皇子が突然権力を失うわけがありませんから、やはり斉明天皇の時代にも政治的決定権はほぼ中大兄皇子が掌握していたのでしょう。
 してみると、中大兄皇子が母親を説得して斉明天皇として即位させ、自ら行ったことを斉明天皇の言い出したこととして責任を転嫁していたようにも思われます。斉明天皇が次々と宮殿を作らせて民を苦しめたといわれていますが、黒幕は中大兄皇子だったのかもしれません。
 さて、蘇我入鹿、蝦夷、古人大兄皇子、蘇我石川麻呂、孝徳天皇と次々に政敵を葬ってきた中大兄皇子ですが、ここでまたもや粛清が行われてしまいます。次回は「有間皇子の変」として知られる事件を見ていきましょう。

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