日本人の物語00620【鎌倉前期】実朝暗殺 凶事の予感
さて、実朝暗殺事件を取り上げるにあたって、頼家の次男・公暁を紹介しなければなりません。この公暁は「くぎょう」と読まれたり「こうぎょう」と読まれたりします。
公暁は正治2(1200)年に産まれ、幼名を善哉(ぜんざい)といいました。4歳のときに父・頼家が殺され、建暦元(1211)年9月15日に鶴岡八幡宮にて出家し、「公暁」という法名を受けました。出家したのは政子の意向によるものでしょうから、つまり将軍位には就けないとの意思決定がなされたものと考えられます。
出家の翌日に受戒のため上洛し、園城寺(滋賀県大津市)に入って修行生活に入りました。建保5(1217)年6月20日、17歳で鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮寺別当に就任しました。鶴岡八幡宮のトップですから、宗教面から幕府を支える重職です。
ところが、翌建保6(1218)年の年末になっても公暁は一向に髪を下ろす気配がなく、ひたすら祈祷を続けていたため、人々はこれを怪しんだといいます。
そして運命の建保7(1219)年1月29日。実朝は右大臣拝賀の儀のため、義時を伴って鶴岡八幡宮へ参詣に出かけました。
実朝が御所を出発する際のエピソードが様々伝わっています。全て後付けの創作と考えられますが、一応紹介しておきましょう。
実朝の出発を見送る大江広元は、なぜか涙が止まらなくなり、
「成人してから泣いたことがない私に、突然涙が出るとはただ事ではありません。不吉な予感がします。用心のため、束帯の下に腹巻を付けてください」
と薦めました。しかし側近の源仲章が
「大臣に昇進した方がそのような物を身に着けるとは、前例がありません」
と反対し、実朝は腹巻を受け取りませんでした。
出発直前まで、実朝の髪をとかしていたのは側近の宮内公氏(みやうちきんうじ)でした。実朝は自ら髪の毛を一筋抜いて、形見だと言って公氏にこれを渡しました。さらに実朝は、庭の梅を見ながら
「出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」
(もし私が去って、主のいない家になったとしても、庭の梅は春を忘れずに咲くように)
と、菅原道真そっくりの和歌を詠んでから出かけていきました。完全に死を覚悟しているかのような態度です。
実朝が御所の南門を出るとき、鳩が何かを訴えるようにしきりにさえずり、実朝が牛車を降りるときには剣がぶつかって折れてしまったといいます。
