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日本人の物語01306【室町/義持期】島津久豊の薩摩掌握

当時の外交は、現代では考えられないくらいお粗末な欺罔が行われていますね。バレたら大問題だ、と思わなかったのでしょうか。

 幕府と鎌倉府の関係が悪化する中、西国においても幕府に対抗しようという武将が現れました。薩摩の島津久豊(しまづひさとよ:1375~1425)です。
 応永25(1418)年6月5日。明から送られてきた使節・呂淵(りょえん)が兵庫港に到着しました。呂淵が持参した国書には「過ちを悔い、朝貢せよ」との高圧的な文言がありました。明の永楽帝は一方的に朝貢関係を中断した日本に怒っていたのです。
 しかし義持としても、一旦中断と決めたものを安易に翻すわけにいきません。呂淵は入洛を認められず、等持寺長老の古幢周勝(こどうしゅうしょう:1370~1433)との面会のみを済ませ、むなしく帰国することとなりました。
 このとき呂淵は、倭寇による襲撃を恐れて南九州経由で帰国したのですが、明の歴史書『明実録』には
「呂淵は義持の使者を連れ帰ってきた。使者は朝貢の中断を詫び、永楽帝はこれを許した」
という日本側の史書と全く食い違う記述があります。実は、薩摩の島津久豊が家臣を「日本国王使」と称して明に送り込んでいたのです。つまり呂淵もこの使者が偽物であることを承知の上で、同行させていたようです。
 島津久豊は恐らく、日本国王と詐称して独自に明との関係を構築することで、貿易の実利を獲得しようとしたのでしょう。ひどく危ない橋を渡っているように見えますが、そもそも島津久豊とはどんな人物だったのでしょうか。
 島津久豊は、既に登場した島津氏久の次男です。氏久といえば今川了俊が九州を平定する際に強敵として立ちはだかった人物でしたね。この頃には島津氏はもちろん幕府に帰順していたのですが、今もなお幕府への反感を持っていたようです。
 氏久の長男・島津元久(しまづもとひさ:1363~1411)は、弟の久豊を嫌う一方で家臣の伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)を信頼していました。死に際して、家督を頼久の子・伊集院熙久(いじゅういんひろひさ)に継がせると表明したほどです。これに反発した久豊は兄の葬儀の場に乗り込んでいき、兄の位牌を奪った上で熙久を追放して島津家当主となりました。この強引なやり方により、国内は久豊派・伊集院派に分裂し4年に渡る争いが起こりましたが、応永24(1417)年にようやく和睦が成立しました。
 久豊は伊集院氏だけでなく、「島津総州家」という分家筋とも内紛を繰り返していました。久豊は総州家の島津久世(しまづひさよ:1397~1417)を和睦名目で呼び出しておきながら殺害するなど汚い手を使いつつ、こちらも同じ応永24(1417)年に和睦が成立しました。
 幕府は当初は久豊の家督相続を認めない方針でしたが、伊集院派も総州家もともに久豊の家督を渋々認めたことを受けて、遂に久豊を薩摩守護に任命しました。かくして島津家は薩摩守護の地位を確立したのでした。

それにしても島津家というのは息の長い一族ですね。鎌倉時代から幕末まで一貫して同じ一族が同じ場所を治めていたというのは、島津家(鹿児島)と南部家(青森・岩手)くらいではないでしょうか。

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