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日本人の物語01496【室町/西国/大乱前夜】武衛騒動 宗全激怒

今月から予約投稿をし始めたのですが、早速間違えて一つ先の回を投稿してしまったようです。こちらが正しいやつです。失礼しました。

 文正元(1466)年7月。義廉家臣が義敏家臣数名を捕らえて殺害するという事件が発生しました。義敏は幕府に対し、義廉の横暴を訴えて「処罰してほしい」と主張します。
 将軍義政はこの事件を審理させましたが、審理役はかねてより義敏を贔屓している伊勢貞親と相国寺蔭涼軒主を務める季瓊真蘂(きけいしんずい:1401~1469)という僧でした。彼らの出した結論はあからさまに身内贔屓なもので、なんと「義廉を廃嫡すべき」というものでした。
 7月23日、義政は彼らの主張をまるまる呑み、義廉を追放して義敏に惣領職(つまり家督継承)を命じました。8月25日には越前・尾張・遠江守護職が義敏に与えられました。義廉は職も家も失い、途方に暮れるばかりです。
 これに怒ったのが、娘を義廉に嫁がせる約束をしていた山名宗全でした。宗全は
「実に奇怪な判断だ。いかに将軍の意向であろうが、私は義廉の屋敷に入って義廉とともに幕府の使者を待ち受け、合戦してやろう」
と言って戦闘の準備を命じました。さすがに行き過ぎです。
 宗全の家臣である垣屋宗続(かきやむねつぐ:?~1483)と太田垣光景(おおたがきみつかげ)は、
「お腹立ちはごもっともですが、義廉との約束はあくまで内輪のもの。一方将軍のご意向は主君の仰せです。公儀に背いて私縁を優先させては家名に傷がつきます。この際、義廉と婚約していたご息女は、公方様に側室として差し上げてはいかがでしょう。この提案を承知いただけず、あくまで将軍と合戦するとおっしゃるならば、我々家臣一同は出家して高野山に隠棲いたします」
と述べ、宿老13人分の連判状まで提出しました。
 家臣たちが皆反対しているにもかかわらず、宗全は
「そなたらの忠言は無用だ。将軍に罰せられても構わない。嘉吉の乱のとき、将軍の仇を取って本懐を達したのは私だ。多少のわがままを言ったとしても免責されるはずである。父(義教)の仇さえも許してしまう将軍なのだから、そなたらは赦免を求めれば許されるだろう。高野山に隠棲する必要などない。そもそも将軍が守護を処罰しようというときは、本来は管領を通して宿老たちを集め、議論させて処罰を決めるべきなのだ。伊勢が側近の立場を利用して、三管領をも思いのままに動かしているとは許せぬ。おぬしらはここに残るがよい。私一人でも義廉の屋敷に入って共に戦うぞ」
と述べ、座を立ってしまいました。家臣らは、そこまで言うならと覚悟を決め、宗全と行動を共にすると決意しました。
 宗全の行動を知った義政は、8月3日に義廉と宗全の娘の結婚を中止するよう命じました。宗全はもはや反逆者となりつつあります。

間違えて投稿した分は、一旦削除することになりそうです。

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