日本人の物語01529【室町/東国/享徳の乱】山内上杉房顕死す
本によって「城」と書いていたり「要害」と書いていたりするのですが、どう違うのかよく分かりません。
成氏方と上杉方の直接の戦闘は徐々に減っていきました。寛正5/享徳13(1464)年は上総国での代理戦争が起こっただけです。
4月14日に、成氏方にして馬加家執事の原胤房が、上杉方の酒井氏が籠もる上総中野城(千葉県千葉市)を攻略しました。また、6月には松渡城(千葉県松戸市)を拠点とする千葉一族の原朗意(はらあきおき)が上杉方に寝返るという事件がありましたが、戦局に大きな影響は与えなかったようです。
7月2日には、甲斐国を事実上牛耳っていた跡部家が滅びました。前年に跡部明海が死去して守護代の座を跡部景家(あとべかげいえ:?~1465)が継いだのですが、その景家を守護・武田信昌(たけだのぶまさ:1447~1505)が小田野城(山梨県山梨市)の戦いで破り、やっと守護が最高権力者に返り咲いたといえます。
翌寛正6/享徳14(1465)年9月。成氏は久しぶりに自ら軍勢を引き連れて武蔵太田荘(埼玉県鴻巣市か)に出陣しました。その後、五十子の陣に徐々に近づき、荒木要害(埼玉県行田市)で合戦となりましたが、小競り合いに終わりました。
この頃、幕府は駿河守護・今川義忠に対してしきりに関東への出陣を要請していますが、義忠はちっとも動こうとしません。12月8日付けの文書で、今川義忠が将軍義政に
「たびたびの仰せではありますが、もうしばらくお待ちください」
と回答しているものが現存しています。
義忠は、関東の泥沼戦争に巻き込まれることを嫌い、むしろこの混乱に乗じて遠江国を自分のものにしたいという野望を持っていたようです。義忠の曽祖父に当たる今川泰範は駿河・遠江2ヶ国を領する守護大名だったのに、泰範の死後、遠江は斯波家に引き渡されてしまったので、今川家にとって遠江奪還は長年の悲願だったのでしょう。一方で、享徳の乱は実益を得られない「犬も食わない戦い」に見えたはずです。
この後、今川義忠は遠江ほしさあまりに独自の戦いを開始し、それが原因で命を落とすこととなるのですが、詳しくは後述します。
さらに月日は流れ、寛正7/享徳15(1466)年2月12日に関東管領・山内上杉房顕が32歳の若さで病没しました。享徳の乱の主役が次々と退場していきます。
房顕が男子を持たぬまま死去したため、家宰・長尾景信は関東管領職と山内上杉家当主を継ぐべき後継者を探すこととなりました。景信が目をつけたのは、越後上杉房定の次男で12歳の顕定(あきさだ:1454~1510)でした。越後上杉家の家督は房定の長男・定昌(さだまさ:1453~1488)が継ぐ予定なので、次男の方をいただきたいというわけです。
これには父親の房定が猛反対しました。そもそも12歳の子がほしいという時点で、長尾がいいように操ろうとしている意図が見え見えです。
後継をめぐって意見は対立し、享徳の乱の上杉方の総大将は半年以上も空席の状態が続きました。
上杉方には絶対的なカリスマ権力者みたいなのが不在なんですよね。それが戦闘の長期化を招いているかもしれません。
