見出し画像

日本人の物語01360【室町/義教期】永享の都鄙和睦

「都鄙和睦」というのは計3回(永享・応仁・文明)あるのですが、今回取り上げるのはそのうちの1回目です。文明のが最も有名で、普通「都鄙和睦」というと文明のものを指します。

 九州には大友・少弐、関東には持氏となかなか思い通りにならない勢力がおり、義教はイライラしていたようです。そのせいか、この頃の義教は異様な方法で裁判を行っていました。
 永享3/正長4(1431)年7月6日。米商人6人が侍所に捕縛されてきました。彼らは飢饉が起こっているのに米の運送路を閉鎖して米価を釣り上げたというのです。
 義教はこの裁判を、なんと湯起請(ゆぎしょう)によって行いました。熱湯に被告人の手を入れさせて、火傷すれば有罪と判断するもので、古くは「盟神探湯(くかたち)」などと呼ばれていた手法です。
 湯起請は非科学的な裁判であり、通常、為政者はその仕組みを熟知した上で科学を知らない庶民を納得させるために利用するものでしょう。義教もそうだと信じたいのですが、義教は自身がくじ引きで選ばれたことから、神の啓示を本気で信じていた可能性もあります。
 結局、この6人は義教の指示により湯起請にかけられ、全員クロとして処刑されてしまいました。
 さらに7月19日、同様の罪で米商人6人が逮捕され、そのうち元乞食の門次郎(もんじろう)という人物が処刑されたとの記録があります。湯起請は中世史上何度も用いられている風習ではありますが、義教の時期には異様なほど多用されたようです。
 同じ7月19日、鎌倉府が派遣してきた二階堂盛秀と対面するか揉めに揉めた結果、遂に義教が折れて二階堂と対面することを決めました。
 7月24日に義教は二階堂と対面しました。その話が鎌倉に伝わり、8月18日から鎌倉府も幕府に従って永享元号を用い始めます。これで幕府と鎌倉府の対立は再び正常化しました。これを「永享の都鄙和睦」と呼びます(幕府のことを「都」と呼び、鎌倉府のことを「鄙」と呼ぶわけです)。罰状の提出もうやむやとなりました。幕府との関係を重視する関東管領・山内上杉憲実にとっては、ようやく肩の荷が下りたところでしょう。
 都鄙和睦から半年が経過した永享4(1432)年2月、越後応永の乱の当事者だった上杉頼方が死去しました。
 憲実は元々、越後上杉氏から山内上杉氏に養子に入った経緯があり、頼方の弟に当たります。憲実は亡き兄の名誉回復を幕府に願い出て、これが認められました。幕府との和睦が成ったからこそ実現したものでしょう。
 これ以降、憲実はますます幕府寄りとなり、アンチ幕府派の持氏と対立を深めるようになります。

室町時代にまだお湯を使った裁判があること自体、驚きですよね。古代のものとばかり考えていました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集