日本人の物語00531【鎌倉初期】日本第一の大天狗*
さて、話は数日ほどさかのぼりますが、鎌倉勢の動きを見てみましょう。
文治元(1185)年11月5日。鎌倉の御家人らが上洛しました。この時点では頼朝は朝敵と扱われており、この汚名を早々に返上しなければなりません。御家人らは頼朝の怒りを左大臣・藤原経宗に伝えました。
後白河法皇は、頼朝追討の宣旨を取り消して、慌てて弁明に努めます。11月11日には義経捜索令を発し、頼朝に対して弁明のための使者として、側近の高階泰経(たかしたのやすつね:1130~1201)を派遣しました。
11月15日。鎌倉に到着した高階泰経は、頼朝に対して
「頼朝追討宣旨は、義経が『出してくれなければ宮中で自殺して抗議する』と言い出したので仕方なく出したもので、本心ではない。まさに天魔の所為であった」
という後白河法皇の弁明を伝えました。
これに対する頼朝の回答は、あまりに有名です。
「天魔とは仏法を妨げ、人に患いをかけるものだ。行家・義経を捕らえないから、諸国が衰え人民が破滅するのだ。だとすれば、日本第一の大天狗はほかでもない、頼朝追討を行家・義経に命じた法皇様ではないか」
この「日本第一の大天狗」という激しい罵りの言葉はよく知られており、後白河法皇の枕詞のように使われています。確かに、一部は幽閉された上で強要されたものとはいえ、後白河法皇がこれまで出した宣旨を見ていくと、
・治承4(1180)年: 平家に対して頼朝追討の宣旨を発する
・寿永2(1183)年: 平家に対して義仲・行家追討の宣旨を発する
・寿永2(1183)年: 義仲・行家に対して平家追討の宣旨を発する
・寿永3(1184)年: 頼朝に対して平家追討の宣旨を発する
・文治元(1185)年: 義経・行家に対して頼朝追討の宣旨を発する
といった具合で、態度をコロコロ変えているわけです。武家勢力同士を衝突させて漁夫の利を得ようとする、恐るべき大天狗と捉えられている所以です。
しかし、独自の武力を持たない後白河法皇にとって、戦に勝利した武士が院御所にやって来たら、彼らが望むとおりの宣旨を出さなければ我が身が危ないわけで、これらの一貫性のない宣旨は身を守るための手段だったと考えられなくもありません。
果たして後白河法皇は権力を弄ぶ老獪な大天狗なのか、はたまた時代に振り回された哀れな老人に過ぎないのか、何とも難しいところですが、ともあれ、都落ちによって哀れ義経は朝敵となる運命にありました。

