日本人の物語01639【室町/西国/六角征伐】斯波家の凋落
そういえば三管領(斯波・細川・畠山)、四職(山名・京極・赤松・一色)の中で江戸時代に大名になれるのは細川と京極だけですね。大名家の浮沈はすさまじいものです。
尾張では文明11(1479)年1月に旧東軍方の織田大和守家(敏定)と旧西軍方の織田伊勢守家(敏広)が尾張を分割統治する方針で和睦したものの、その後も小競り合いを繰り返していました。一応、尾張国内の対立構造を復習しておきましょう。
旧東軍: 斯波義寛・織田大和守敏定 @清洲城(愛知県清須市)
旧西軍: 織田伊勢守敏広 @岩倉城(愛知県岩倉市)
文明13(1481)年3月には、敏広が敏定と再び争って敗北した上、その直後に病死してしまいます(戦死説もあります)。7月になると、敏広の甥にして養子の織田寛広(おだとおひろ)が主君・斯波義寛に降伏し、これ以降、尾張守護代は織田敏定ということで決着がつきました。8月には織田敏定と織田寛広が一緒に上洛し、義政に「尾張は平穏になりました」と報告して礼物を献上しました。
斯波義寛としては、尾張国内の敵が屈服してくれたので、あとは越前の朝倉氏さえ討伐できれば斯波家は再び隆盛を誇ることができます。
そして義寛にとって幸運なことに、7月26日に朝倉孝景が死去して子の氏景がこれを継ぎました。3月にも死去したとの噂が流れていましたが、そのときは病床に臥せっただけだったようです。斯波家を追放して事実上越前の支配者となった憎き孝景がいなくなり、義寛は大きなチャンスを得たといえます。
ちなみに、公家の甘露寺親長は、日記『親長卿記』に
「朝倉孝景は天下一の極悪人だ。あの男が死んだことは近年まれにみる慶事である」
と記しており、大乗院尋尊も
「今度一天下乱るは教景(孝景の異名)の所行」
と記すなど、孝景はひどい悪評を立てられています。大規模な荘園領主でもある甘露寺親長や尋尊にとって、守護家を乗っ取る守護代の存在は身分秩序を揺るがす脅威に見えたのでしょう。また、興福寺は越前国内にも多くの荘園を持っていたらしく、それを押領されたことがあったのかもしれません。
少し先の話になりますが、ここでお話ししておきましょう。斯波義寛は越前を取り戻そうと文明13(1481)年9月に越前に侵攻しましたが、朝倉氏景の軍に敗北し、加賀国へと逃れました。その後も越前を窺っていましたが、文明15(1483)年3月には結局尾張に帰国し、清洲城に住み着きました。
これを機に越前では朝倉氏景と甲斐敏光が和睦し、朝倉による支配が確立しました。尾張守護代・織田敏定、越前守護代・朝倉氏景、遠江守護代・甲斐敏光の3ヶ国とも名目上は斯波家に従っているものの、実際に斯波家を立ててくれているのは織田家だけです。
かつて三管領の筆頭としてあれほどの栄華を極めた斯波家は、尾張一国の統治者となり果て、越前を取り戻す夢もここについえたのでした。
その尾張も間もなく取られますけどね。
