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日本人の物語00213【奈良】藤原四子の時代*

 長屋王という政敵を謀略によって葬った藤原四子は、ここに最盛期を迎えます。
 この時点で長男・武智麻呂と次男・房前は既に参議以上に昇進していました。長屋王の死から僅か3週間後の神亀6(729)年3月4日、武智麻呂は中納言から大納言に昇進します。
 さらに天平元(729)8月10日、藤原光明子が皇后となります。皇族以外で皇后となったのは、伝説上の人物である仁徳天皇の后・磐之媛(00130回参照)を除けばこれが初めてのことです。前々から話があったものの、長屋王の介入がなくなったためにようやく実現したものでしょう。
 光明皇后は、立后の翌年に悲田院・施薬院を設置して飢えと病に苦しむ人々を救ったといわれています。養老7(723)年に私的に設置した悲田院・施薬院を公式に政府のものとしたわけです。非皇族からやって来た皇后として様々な毀誉褒貶がある中、率先して社会福祉を推進し、存在感を示そうとしたのでしょう。
 天平3(731)年8月11日。宇合と麻呂が参議となり、これで四子全員が参議以上となりました。参議とは、左大臣、右大臣、大納言、中納言に次ぐ役職のことで、当時は6席ありました。通常、大納言、中納言、参議の8席には一氏から一名ずつ選ばれることとなっており、8席中4席を同一の氏族が独占するのは異例のことでした。
 藤原氏はいかにして8席中4席を独占したのかというと、なんと藤原氏自体を4家に分けてしまったのです。
・長男・武智麻呂は南家
・次男・房前は北家
・三男・宇合は式家
・四男・麻呂は京家
をそれぞれ名乗り、これらは別々の家であると整理付けられました。こうして、4人全員が「氏の長者(うじのちょうじゃ)」=家の代表者となり、参議となる権利を得たのです。サッカーワールドカップに、イングランド代表、ウェールズ代表、スコットランド代表、北アイルランド代表が別々に出場するようなものですね。
 四子が行った政策のうち歴史的に意義のあるものは、天平3(731)年の河内国狭山池(大阪府大阪狭山市)の築造と、天平4(732)年の節度使の設置でしょうか。前者は溜め池を作って農業生産力の向上を目指したもので、後者は軍備の強化です。
 さて、権勢をほしいままにしていた藤原四子の時代は突如として終焉を迎えます。天平9(737)年に天然痘が大流行し、房前、麻呂、武智麻呂、宇合の順にたった4ヶ月の間に全員が死去してしまったのです。あまりに突然のことで、当時は長屋王の祟りではないかと恐れられたようです。

藤原四子の伝記。ただの悪役としてだけでなく、歴史上の位置付けや政策面の評価も加えた本。

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