日本人の物語01693【戦国/東国/長享の乱】諏訪 大祝横死
諏訪大社の祭礼が行えなかった年がある、というのは衝撃です。当時、祭礼の優先順位は現代よりもはるかに高かったはずです。
大祝・継満にとって大きな誤算だったのは、肝心の上社の関係者たち、特に大祝を支えるべき神長官・守矢満実(もりやみつざね)が完全に敵に回ってしまったことでした。神聖なる神殿の内部で従兄弟の惣領家を殺害してしまったという不祥事、それも対立派閥である下社を引き入れて行われた惨事に、諏訪大社上社の関係者たちは皆激怒し、継満を大祝の座から追放しようと主張し始めたのです。ちなみに神長官・守矢氏とはタケミナカタがやって来るまで諏訪地方を治めていたモレヤという神の子孫でしたね(00089回参照)。
大祝・継満が支持を失い、大祝家と惣領家の戦いは惣領家にやや分がある状況です。しかし下社の金刺興春は未だ継満と意を通じており、この機に惣領家を滅ぼそうと文明15(1483)年3月19日に高島城(長野県諏訪市)に攻撃を加え、これを陥落させました。
一旦は敗れた惣領家の矢崎政継でしたが、やがて戦局を逆転させ、逆に下社を襲撃して焼き払いました。金刺興春は討たれ、その首は大熊城(長野県諏訪市)にさらされたといいます。この年、毎年3月に行っていた諏訪大社の祭礼は上社・下社とも全く挙行できませんでした。
惣領家VS大祝家+下社の争いは、しばらく睨み合いとなりました。この間、大祝・継満は各地に運動して鈴岡小笠原政秀や高遠継宗の支援を受ける約束を得ます。鈴岡小笠原政秀は3年前に継満と戦ったばかりの相手ですが、なぜ継満の味方になったのかよく分かりません。この時代の対立構造は実に複雑です。
しかし継満は思わぬ形で命を落とします。翌文明16(1484)年5月3日、なんと落馬して谷底に落ちて死んだのです。出来過ぎた話であり、もしかするとただの病死だったのを惣領家側がデマを流して神罰らしく仕立てたのかもしれません。
紆余曲折あったものの、諏方家の内紛は惣領家の勝利に終わりました。守矢満実は殺された惣領・政満の遺児を連れてきて惣領及び大祝の座に据えました。
こうして分離されていた惣領・大祝の職は、あまりに大きな犠牲を払った上で、遂に一本化されたのでした。
なお、その連れて来られた遺児の名前は、諏方頼満(すわよりみつ:1473~1540)といいます。継満の父で、干沢城陥落の際に殺害された頼満と同じ実名なのでややこしいのですが、当時は実名などほとんど使う機会がなかったので、混同のおそれはなかったのでしょう。歴史家は、便宜上区別しやすいように殺された方の頼満を「伊予守頼満」、新たに惣領及び大祝となった方の頼満を「安芸守頼満」と呼ぶことが多いようです。
諏訪大社の内紛はこれで終わりますが、小笠原氏の内紛はまだ続きます。
モレヤの話など覚えている人がいるとは思えませんが、一応書いておきました。歴史は一つにつながった物語だなあと思います。
