日本人の物語01620【室町/東国/長尾景春の乱】臼井城陥落
「大将が戦死したのに勝ち戦」という珍しい事例です。
道灌による下総攻略の話に戻ります。
道灌が真里谷武田氏の城を全て陥落させたと聞いて、弟の資忠はひどく焦ったことでしょう。道灌が3つの城を落としたのに、自分は臼井城1つに未だに手こずっています。このままでは兄に顔向けできないと思ったはずです。
資忠は文明11(1479)年7月15日に臼井城への総攻撃をかけました。臼井城は落とせたものの、激戦のさなか大将たる資忠が戦死してしまいます。資忠が命と引き換えに落とした臼井城は、これ以降千葉自胤の居城となりました。敗北した千葉孝胤は千葉城(千葉県千葉市)に逃れます。
これら千葉氏との戦いにおいて、道灌は鉢形城の山内上杉顕定に何度も援軍要請を行っていましたが、一度も援軍は来ませんでした。顕定はいつ姿を現すか分からない景春への備えのため、鉢形城を空けられなかったものと思われます。しかし道灌の顕定への不満は募ったことでしょう。
さらに道灌と主君との溝を深める出来事がありました。同じ7月に、幕府との和睦がなかなか仲介されないことに業を煮やした古河公方成氏が、弟の熊野堂守実(くまのどうしゅじつ)を江戸城に派遣し、道灌に改めて交渉を依頼してきたのです。
道灌はあくまで扇谷上杉定正の家臣に過ぎないのに、山内上杉顕定も扇谷上杉定正も飛び越して直接道灌に依頼がなされたことは、山内・扇谷両者をひどく怒らせました。道灌は平素から身分秩序を蔑ろにして直接様々な相手に働きかけることが多く、そうした態度が成氏の使者派遣につながったのだと指摘されたのです。
千葉氏との戦いが未だ道半ばですが、閏9月になって景春が日野城を拠点に再び蜂起しました。上杉家・長尾家・太田家が集まって今後の対策を協議したところ、
・長尾忠景「早期に景春の本拠である秩父攻略を行うべき」
・太田道灌「秩父は後回しにして、攻略しやすいところから始めるべき」
と主張し、意見が対立しました。結局道灌の主張が容れられ、景春配下の長井氏が守る長井城(埼玉県神川町又は熊谷市)から攻略開始することになったのですが、どうも道灌は景春に甘く、直接対決を避けたり、対決しても相手を取り逃がしたりしており、説得によって戦闘を終結させようと考えていた節があります。
長井城を落とすべく、道灌は11月28日に江戸城を出発しましたが、その途上、成田氏(埼玉県行田市を拠点とする豪族)の配下で反乱の動きがあるとの情報が入り、しばらく成田の陣に在陣することとなりました。総攻撃は中止です。どうも道灌は豊島氏や成氏配下の千葉氏と戦うときは勇敢なのに、景春やそれに近しい人物との戦いになるとひどく消極的になるようです。
「道灌は景春と通謀しているのでは」などと疑う人がいたのも頷けます。
