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日本人の物語01082【南北朝中期】仁木義長の傲慢*

「光る君へ」が終わってしまいましたね。来年もまた戦なしの珍しい時代を描いた大河で、期待しています。

 これまでの南北朝動乱の流れを振り返ると、
〇南朝と北朝が戦っている最中、北朝内で尊氏・師直VS直義の内紛が生じた。
〇直義自身は早い段階で死去したが、直義党に属していた者が南朝方についたので、南朝は息を吹き返した。
といったところです。
 そしてここに至って、足利直冬、桃井直常、石塔頼房といった旧直義党の人々のみならず、有力守護である斯波高経や山名時氏までもが南朝方についてしまい、北朝方は更なる苦難に遭うこととなりました。
 こうした情勢を受けて、幕府の有力守護たちは将軍を軽視して、好き勝手に振る舞うようになりました。その筆頭が仁木義長です。
 仁木義長の言動にはかねてより問題がありました。第六次京都合戦の最中である正平10/文和4(1355)年2月4日、義長は右京大夫への任官を希望して朝廷への申請を行いました。幕府の了解も得ず朝廷(北朝)に直接申請するとは、将軍を恐れぬ所業です。
 まして戦乱の最中ですから、この申請は二重の意味で非常識でした。このとき、後光厳天皇は戦乱を避けて近江の武佐寺(滋賀県近江八幡市)に逃れていたので、朝廷は当然、
「主上が京へ戻ったら受理する」
と回答しました。結局、翌年になってから義長の申請は認められ、無事に右京大夫への任官が叶ったわけですが、空気が読めないというか、傍若無人というか、いずれにせよ義長の行いは人々の不興を買いました。
 そして4月23日、義長はさらに細川清氏との大喧嘩を引き起こします。
 第六次京都合戦の際に、細川清氏が必死に敵と戦っているのに、仁木頼章・義長兄弟は桂川の向こう岸から戦いを眺めているだけだったため、ただでさえ清氏は仁木を恨んでいました。そこに新たな問題が生じたのです。
 原因は、清氏の所領である三条西洞院の敷地内に、義長が勝手に家を建てようとしたことでした。明らかに義長側に非があるのですが、義長が謝罪しないため、義長・清氏両者とも兵を準備し、あわや市中で合戦かという一触即発の事態でした。
 仁木と細川といえば、いずれも愛知県岡崎市内にルーツを持つ同族で、今も仁木町と細川町は隣町なのですが、同族であるがゆえの感情的対立もあったのかもしれません。
 幕府内でも特に有力視されている2人の大将の大喧嘩に、幕府は慌ててとりなしに動きました。尊氏は、義長宅に息子義詮を派遣して説得に当たらせるとともに、なんと清氏宅に自ら赴いて説得に当たったのです。
 これによりどうにか武力衝突は免れたのですが、有力守護同士の喧嘩を幕府のトップ2が自ら動かなければ止められなかったことは、幕府の権威低下を大きく印象付ける事件でした。

岡崎市内を走っていて思わず撮影してしまった細川の交差点。2024年6月30日撮影。
上の細川交差点から500mのところにある仁木の交差点。なお、写真で信号機の光が消えるのはよくあること。2024年6月30日撮影。

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