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日本人の物語01635【室町/西国/六角征伐】ドッペルゲンガー事件

もう通史として紹介する必要のない事件まで紹介するようになってしまいました。取り上げるかどうかの基準は「私が面白いと思ったかどうか」です。

 9代将軍に就任した義尚は数え15歳になりましたが、どうも人付き合いが下手だったようです。文明11(1479)年11月19日に、義政・富子と酒宴を開いていた後土御門天皇が
「義尚も来てくれると嬉しい」
と発言したのですが、義尚は風邪気味を理由にこれを断っています。
 11月22日に義尚はやっと判始(はんはじめ:初めての文書決裁)の儀式を行い、これ以降は自ら決裁できるようになりました。しかし相変わらず実権は大御所義政が持ち続け、義尚が決裁する案件はほとんどなかったといいます。まあ実権といっても、そもそも幕府の権限自体が縮小している状況ではありますが。
 12月3日には14歳の細川政元が拉致されるという大事件が勃発しました。丹波国被官の一宮宮内大輔(いちのみやくないたいふ:?~1480)に野遊びに誘われ、ノコノコと丹波までついていったところで監禁されてしまったのです。動機は、一宮宮内大輔が丹波守護代・内藤元貞に所領を押領され、細川家に訴え出たものの訴訟で敗北したことでした。
 この拉致事件が解決したのは4ヶ月後のことでした。文明12(1480)年3月23日、細川家被官の庄元資(しょうもとすけ:?~1502?)と安富元家(やすとみもといえ:?~1504)が政元救出のため丹波に向かったのです。一宮方と戦いになったものの、宮内大輔の味方だったはずの一宮賢長(いちのみやかたなが)が寝返り、宮内大輔を斬って政元を救出しました。結局、3月26日に政元は無事に帰洛することができました。
 この拉致事件のさなかの2月、尋尊が日記に怪事を記録しています。
 その日義政は千本釈迦堂で行われる法事に参列するため牛車で出かけたのですが、法事終了後の帰り道、途中で牛飼いが牛車の中を覗くと空っぽになっていました。牛飼いは確実に義政が牛車に乗るのを見届けてから出発したはずで、多くの者もそれを目撃していたにもかかわらず、義政が消えてしまったのです。急いで千本釈迦堂に戻ると義政がおり、
「最初から牛車に乗っていない」
といいます。
 結局、皆が目撃した義政は何だったのか、分からずじまいでした。
 尋尊はこの事件について「天狗の所為」「希代の不思儀、これに過ぐるべからず」と記しました。人々はこれを凶兆とみなし、天下騒乱が近いと捉えて家の修繕を控えるようになりました。そして義政自身もひどく恐怖し、
「私の命も長くない」
などと言って来世の菩提を祈り始め、富子も
「公方様あっての私です」
と言って真如堂に籠もって念仏を唱えたといいます。

このときは義政と富子の仲は良いみたいですね。

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