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日本人の物語01619【室町/東国/長尾景春の乱】久米城の戦い

佐竹氏がずっと常陸太田市・常陸大宮市にいて、なかなか水戸に出てきません。調べてみると水戸に出てきたのは戦国時代後半のことだそうで。

 道灌による下総攻略の途中ですが、同時期に佐竹家の内紛についても動きがあったので紹介しておきましょう。まずは、これまでの流れを簡単に復習しておきます。
①佐竹義人は長男義俊を嫌い、次男実定を可愛がった。享徳の乱が始まると義俊が成氏方、義人と実定が上杉方となった。
②実定が病死したため、義人は実定の子の義定に家督を継がせようとするが、常陸国人らが反発。やむなく義人は長男義俊を呼び戻し、家督を継がせた。かくして佐竹家は上杉方から成氏方となった。
③義人の死後、長男義俊が佐竹家の最高権力者となった。次男の実定は既に病没していたが、その子の義定が当主の座を狙い、佐竹氏庶流の山入祐義を味方につけて水戸城の江戸通長のもとに身を寄せたが、義俊が送り込んだ刺客に襲われ、殺害された。
 ここまでが既にお話しした部分です。
 内紛に勝利した義俊は文明9(1477)年11月24日に死去し、その後を子の佐竹義治(さたけよしはる:1443~1490)が継ぎました。一方、山入家でも当主の祐義が死去し、後を義知(よしとも:?~1478)が継ぎました。
 これまで見てきたとおり、佐竹家ではずっと本家と分家(山入家)とが争ってきました。当主義治は、ライバルの義定を支援した山入家を許していませんでしたし、山入義知もまた、山入家が支援する義定を暗殺した佐竹本家を許していなかったのです。
 義治は山入からの攻撃に備えるべく、
・三男・久米義武(くめよしたけ:?~1478)を久米城(茨城県常陸太田市)に
・四男・佐竹義信(さたけよしのぶ:1476~1533)を利員城(茨城県常陸太田市)に
・五男・佐竹政義(さたけまさよし:1484~1534)が山方城(茨城県常陸大宮市)に
それぞれ配置しました。
 両者の対立が深まる中、先に手を出したのは山入方でした。文明10(1478)年11月、山入義知は那須資持の援軍を得て久米城を攻撃し、激戦の末に久米義武を自害に追い込みました。
 翌12月には義治方が巻き返して久米城を奪回し、山入義知を討ち取るとともに那須資持に重傷を負わせました。山入家の家督は弟の義真(よしざね)、次いでその子の義藤(よしふじ:?~1492)へと受け継がれていきます。
 義治は奪還した久米城に四男の義信を置きました。その後、義信の子孫たちは佐竹本家を北から支える一家となり「佐竹北家」と呼ばれます。また説明しますが、後に「佐竹東家」「佐竹南家」も作られます。これ以降、庶流に属する人物については例えば「佐竹北義信」などと呼称することとします。

同じ一族が多すぎる場合、地名を苗字の頭に付けることで区別する文化がありますが、これは現代の歴史学者がやっているだけで、当時にはなかった文化かもしれません。

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