日本人の物語01128【南北朝後期】畠山国清反逆 離反
この連載、今は知名度も影響力も低いですが、今後いろんな人から参照されるかもしれないと思うと責任重大かもですね。間違った情報を載せないよう注意せねば。
仁木、山名、細川の相次ぐ反逆に幕府高官たちは危機感を覚えますが、将軍義詮は
「まあ畿内ではいくつか反逆が起こっているが、関東8ヶ国の軍勢を呼び寄せて征伐すれば大した問題ではない」
と言って特段騒いでいませんでした。ところが正平16/延文6(1361)年11月13日、関東からやって来た使者が
「畠山国清とその弟・義深が反逆し、伊豆国へ籠もってしまいました。これにより、鎌倉から京へ向かう道は分断されました」
という衝撃の知らせを届けてきました。将軍を支えるべき執事の細川に続き、鎌倉公方を支えるべき関東執事の畠山が反逆したというのです。
これまでの流れを整理すると、
①仁木と畠山が険悪になった。
②畠山の提案によって仁木を討伐することとなった。
③仁木が反逆して南朝方についたが、畠山はあまりに強引で周囲の反感を招き、孤立した。
④畠山も幕府に反逆した。
といったところです。仁木と畠山の対立から始まったのに、結局両者とも幕府を裏切るとは実に不思議です。
言われてみれば反逆に至る伏線は確かにありました。前々年、畠山国清が南朝征伐の大将として上洛したとき、関東8ヶ国の武将たちを大勢引き連れてきたのですが、国清は彼らとトラブルを起こしていたのです。
関東の軍勢は長旅に疲れ、数ヶ月間在陣したことで金銭的にも窮乏し、やむを得ず馬や武具を売るようになりました。それでもなお戦いは終わらず、武将たちは国清の許可もとらず、挨拶もせずに本国に帰っていきました。
その後、国清もまた仁木討伐問題で失脚し、京に居づらくなって関東に戻ったわけですが、そこで先に無断帰国した者たちの所領を没収してしまったのです。勝手に帰国した罪に対する罰というわけですが、国清自身も義詮の許可を取らず勝手に帰国したわけですから、人のことは言えません。
武将たちは不満を訴えますが国清は耳を貸さず、正式に上申して訴えを提起した者に対しては厳しく叱責して幽閉したので、遂に千人あまりの者が
「畠山国清を関東執事として使われるならば、今後全ての命令に従わない」
と鎌倉公方・足利基氏に訴え出ました。
関東武士たちがこれほど強硬に国清排除に動き出した背景には、国清の盟友・細川清氏が失脚したことで「国清も追い落とせそうだ」と見込んだ者が増えたせいでしょう。
