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日本人の物語00631【鎌倉前期】承久の乱 政子の演説

 朝廷と戦うといっても、朝敵とされたことに動揺を覚えない御家人はいません。士気を鼓舞するため、御家人たちは御所に集められました。
 北条政子がその前で演説を始めます。
「皆、心を一つにして聞くように。これが私の最後の言葉を心得よ。頼朝公が朝敵を征伐し、関東(鎌倉幕府のこと)を草創して以降、皆が官位や俸禄をどれだけ得てきたかを思い起こしなさい。その恩は山よりも高く、海よりも深い。恩に報いる心が浅いはずはないだろう。今、逆臣の讒言により道理に背いた院宣が下されてしまった。名を惜しむ者は今すぐ藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、3代に渡る将軍の遺産を守るように」
 この演説は御家人たちを感銘させ、涙を流さぬ者はなかったといいます。
 非常に有名な場面ですが、吾妻鏡には政子が「御簾の向こうから、安達景盛を介して指示した」と書かれており、実際にはこの演説は景盛の代読という形で行われたようです。政子はこの時点で従二位の位階を得ており、無位無官の御家人もいる前で安易に姿を現すことはできなかったのでしょう。
 さて、政子の演説は実に巧妙に論理をすり替えているように思われます。というのも、後鳥羽上皇が命令したのは「義時個人の追討」であって「鎌倉幕府の解体」ではありません。御家人たちが院宣をよく読んでいたなら、「執権の首をすげ替えれば済むのか」と気づいて、院宣に従おうと思った者も多かったのではないでしょうか。
 ここで政子が「義時を守れ」と演説したとしても、多くの賛同は得られなかったでしょう。頼朝のカリスマ性に惹かれて御家人となった者が多い中、頼朝の名を持ち出さなければ賛同は得られません。そこで政子は、上皇の命令を「頼朝以降続いてきた鎌倉幕府という仕組みの解体を求めるもの」と曲解し、「頼朝の恩を思い出せ」と説いたのです。実に巧みな演説であったと思います。
 さて、朝廷と戦うことが決まったとはいえ、どのような戦略をとるかが問題です。義時、泰時、時房、三浦義村、安達景盛が集まって評議し、
「足柄・箱根の関で待ち構えるべき」
との結論が出ました。朝廷と好んで事を構えるわけではないので、相手が討ち込んで来てから反撃しようということでしょう。
 ところが、この結論に大江広元が反対しました。唯一の文官である広元が
「京に出撃するべき」
と積極策を主張したのです。

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