日本人の物語01628【室町/西国/六角征伐】譲位断念
天皇と将軍のお金をめぐるトラブルです。
文明11(1479)年7月20日。内裏再建に難色を示す義政は、伝奏の中院通秀(なかのいんみちひで:1428~1494)を通して後土御門天皇に
「譲位ともなれば、仙洞御所を造営したり御幸始の儀式を行ったりする必要があります。皇位継承の諸儀礼も発生します。時節柄、それらの費用が工面できません。せめて若宮だけは責任を持って預かり、元服などの準備をいたしましょう」
と伝えました。つまり譲位はやめてほしいけれども、勝仁親王の元服の儀には協力するというのです。
中院通秀も
「時節柄、思いとどまるべきでしょう」
と苦言を呈したので、天皇は譲位を諦めることとなりました。通秀は日記に
「帝が不機嫌にならずよかった」
と記しています。
しかしその後、義政が引き受けたのは儀礼に用いる会場の提供と所役の勤仕だけであることが判明しました。つまり元服の儀の費用そのものは天皇家で自弁してほしいというわけです。これを聞いた後土御門天皇は不機嫌になり、
「平素の年貢が入って来ない状況で、費用の自弁など不可能だ」
と述べました。そもそも年貢が入って来ないという異常な状況が作り出されたのは、幕府が守護を統制できていないからであり、そのようなひどい世相を作り出したのは義政その人かもしれません。
天皇はさらに
「まずは費用を確保して、その上で加冠役の人事などを検討したい」
と述べました。これまた分かりにくい言葉です。
元服の儀における加冠役は慣例により将軍家が務めることとされており、その「人事」は検討するまでもなく義政が務めるに決まっているのです。人事を検討するとは、天皇は
「幕府が費用を負担してくれないのなら、加冠役をやらせてあげないぞ」
と訴えているわけです。
しかし、義政に加冠役を務めたいとの思いは特になかったらしく、この取引には乗って来ませんでした。
結局、元服の儀が行われたのは翌文明12(1480)年のことでしたが、その費用は天皇家と将軍家の折半となり、加冠役は大御所義政が務めました。そして天皇家の負担分の多くは日野富子からの貸し付けだったといいます。富子は以前から金融業者のような行動を取っていますが、大名家のみならず天皇にまで利子付きで融資するとはなかなか大胆です。
天皇に貸し付けて、もし不払いとなればどうやって取り立てるのでしょうね。荘園を押領するのでしょうか。
