日本人の物語00384【平安後期】天下三不如意
師通の死により、その子の藤原忠実(ふじわらのただざね:1078~1162)が内覧となりました。
忠実は未だ20歳で実力不足であったため、祖父・師実の指導を仰ぐ必要があったようです。しかしその師実が、前述のとおりいまいち政務に消極的な態度を取り続け、それが白河法皇による院政が始まる原因となるわけです。ちなみに白河上皇は嘉保3年(1096)年8月9日に出家したので、これ以降は「白河法皇」と称します。
ここからは白河法皇の治世となるので、まずは白河法皇という人物の性格についてお話ししておきましょう。
平家物語に描かれたエピソードに、「天下三不如意」というものがあります。この頃、白河法皇が、
「私には思い通りにならないものが三つある。賀茂川の水、双六の賽、山法師の三つである」
と嘆いたというものです。
「賀茂川の水」とは、氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川の水害のことです。「双六の賽」とは、双六の二つのサイコロが出す賽の目のことです。「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に強訴を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵のことです。逆に言うと、その3つ以外は全て思い通りになるということですから、相当な権力を手に入れていたということでしょう。
『古事談』には、こんなエピソードもあります。
あるとき白河法皇が、法勝寺(ほっしょうじ)で金泥一切経(こんでいいっさいきょう)の供養をしようとしたのですが、3度も雨天のため延期となりました。これに怒った白河法皇は「雨を罰しよ」と命じ、雨水を器に入れて獄舎の中に下したというのです。
これは白河法皇の呆れた話として取り上げられることが多いようですが、ユーモアのつもりで下された命令かもしれませんね。
一方で、白河法皇の人心掌握術の巧みさを示すエピソードもあります。藤原顕季(ふじわらのあきすえ:1055~1123)と源義光との間で所領争いが起きたとき、白河法皇はこれを長く放置して決裁をしませんでした。顕季が理由を尋ねると、白河法皇は
「あの所領は顕季にとっては数ある所領の一つだが、義光にとっては唯一のものだ。道理だけで決裁してはいけないと思っている」
と答えました。つまり、論理的に考えれば顕季の勝訴となるが、だからといって顕季を勝たせてはならないと思っているというのです。
これに納得した顕季がすぐに所有権を放棄して義光に譲ったところ、義光はこれに感謝し、顕季への気遣いを絶やさぬようになったといいます。
白河法皇は、余程武士の扱いに長けていたということでしょう。
