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日本人の物語01319【室町/義持期】応永三十年の危局

義持と持氏、結局戦うのかどうなのか。「もう結果だけ教えてよ」という声が聞こえてきそうです。

 応永30(1423)年4月25日。義持は等持院で出家しました。この出家は完全に秘密裏に行われ、側近の満済すら寝耳に水だったようです。このとき義持は38歳であり、父義満が出家した年齢と同じでした。ただ義満と異なるのは、出家後も三条坊門第で息子義量とともに居住したことです。別の家に住まなかったのは例によって倹約のためとみられます。
 さて、幕府との関係悪化をものともしない持氏は、小栗城を攻めるべく5月6日に鎌倉を出発し、5月28日には武蔵府中(東京都府中市)に陣を布きました。
 持氏の勝手な行動に怒った義持は思い切った行動に出ます。6月5日、上総守護・宇都宮持綱に
「これ以降、持氏の命令には従うな」
との命令を送り付けたのです。あわせて、持氏に相談することなく
・武田信重を甲斐守護に
・殺害された山入与義の次男・山入祐義を常陸守護に
それぞれ任命してしまいます。
 本来、甲斐や常陸を含む関東12ヶ国の守護の任命権は鎌倉公方にあるわけですから、これは明らかな越権行為でした。もはや幕府と鎌倉府の対立は最高潮に達しており、これを現代の歴史家たちは「応永三十年の危局」と呼んでいます。
 義持の怒りを知ってか知らずか、持氏は不気味なほどにゆっくりと敵の本拠たる小栗城に近づいていきます。
・6月20日に古河城(茨城県古河市)に立ち寄り
・7月1日に結城城(茨城県結城市)に立ち寄り
・7月5日に伊佐城(茨城県筑西市)に立ち寄り
・7月8日に小栗城(茨城県筑西市)を包囲
と記録されていますが、進みが異様に遅いのは周囲の国人たちが集まってくるのを待ったためと考えられます。
 一方、幕府方も順調に味方を増やしています。7月4日には宇都宮持綱から幕府に「幕命に従います」との密使が届けられている記録があります。このほか、常陸の山入氏・大掾氏・真壁氏といった大名たちも鎌倉府ではなく幕府方に忠誠を誓っていました。持氏は敵を掃討していると思い込んでいますが、それと並行して幕府方による持氏包囲網は着実に構築されていっているのです。

幕府と持氏との決着がつくまでにはまだまだかかるので、この辺りは気長にお読みください。

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