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日本人の物語01671【室町/西国/六角征伐】義視死す

義材のひどく繊細な性格が現れていますが、なぜか義視が死去した後は徐々に大胆になっていくんです。

 義材は父・義視が倒れたことにひどく狼狽しました。自分の居住する三条御所内に父の床を設け、側近たちに
「父が安眠できるように音を立てるな」
と厳命し、自分も父の部屋のそばの廊下を通らずわざわざ庭を通って遠回りするようにしました。大きな音を立てた家臣に激怒し、むしろ義視から叱責されたとの話もあります。
 さらに義材は父の病を治すため名医を次々と呼び、治らないと聞くと主治医を次々と交代させました。
 9代将軍義尚は父の介入を嫌ってひどく反発していましたが、10代将軍義材はむしろ政務に自信が持てず父の支援を心から求めていたようです。確かに義材は少年期を美濃国で過ごしており、政務を間近で見る経験が全くなかったでしょうから、父が唯一の頼みだったのでしょう。
 しかし義材の祈りもむなしく、延徳3(1491)年1月7日に義視は死去してしまいます。奇しくも兄義政の一周忌に当たる日でした。
 ちなみに前年12月12日には、応仁の乱を駆け巡った問題児・畠山義就が病死しています。家督を継いだのは子の畠山義豊(はたけやまよしとよ:1469~1499)でしたが、義豊は義就に比べると大人しい性格だったようで、五条為学(ごじょうためざね:1472~1543)の日記『拾芥記』で「微弱」と評される人物でした。分国内での土一揆を鎮圧できず、徐々に埋没していきます。
 義政、義就、義視と応仁の乱の主役たちが次々と退場していきます。
 政治経験ゼロ、支えてくれる重臣不在という問題を抱えた義材にとって、最大の脅威は細川政元でした。かつて三管領(斯波・細川・畠山)の中では斯波家が筆頭でしたが、今や細川家が最大勢力として多数の兵力と人脈を有しています。その政元が相変わらず清晃を支持しており、義材の新政権と微妙に距離を置いているのです。
 ここで義材にとって最も頼れる人物は、日野富子だったかもしれません。富子は義政を超える政治的才覚を持っており、公家・武家双方と強固なコネクションを築いています。しかし義材はさほど富子にすり寄ろうとしません。父と対立した富子を生理的に受け入れられなかったのかもしれません。
 義材はやがて9代将軍義尚と同じ轍を踏むことになります。つまり側近にして公家の葉室光忠(はむろみつただ:1451~1493)ばかりを重用し始め、守護たちに評判の悪い政策ばかり実行するようになるのです。
 そしてそれは政元にとって好都合でした。義材を葬って清晃を擁立しようとする政元の暗躍が始まります。

側近の数を絞り込みすぎると、だんだん組織全体が見えなくなっていくものですね。現代でもよくある構図だと思います。

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