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日本人の物語00995【南北朝前期】直義、将軍御所に逃れる

このあたりの歴史は、歴史家によって捉え方が大きく異なるので、どうまとめるかいつも迷いながら書いてます。

 正平4/貞和5(1349)年8月9日。高師泰は甲冑で完全武装した兵3千騎と、軽微な楯で武装させた人夫7千人を引き連れて、さながら合戦のような姿で入京しました。弟・師直を守ろうとの気概を示したのでしょう。
 8月11日夕方。赤松円心とその子の則祐・氏範(うじのり:1330~1386)は、700騎で高師直の屋敷を訪ねました。師直の危機を知って、応援に駆け付けたのです。
 師直は
「三条殿(直義)が理由もなく我々を滅ぼそうとしている。既に事は切迫しているので、将軍殿(尊氏)へ内々に事の次第を嘆き訴えた。すると将軍殿は、『直義がそのような計画を立てたとは、ひどく穏やかならざることだ。すぐに止めて、そなたについて讒言した者の罪を厳しく問うことにしよう。もしそれでも承服せず直義がそなたを討とうとするようならば、私はそなたと生死をともにするつもりだ』とまで仰ってくださった。将軍殿を味方につけたからには、三条殿の討手に向かって矢を射かけ申そう。三条殿に味方する中国地方の軍勢が攻め上ってくるであろうから、そなたら赤松勢はそれを防いでほしい」
と述べ、赤松円心は承諾してその夜のうちに播磨国に馳せ下りました。
 師直の予想通り、中国探題として鞆ノ浦(広島県福山市)にいた足利直冬は直義に味方しようと上洛計画を立てたのですが、山陽道を赤松勢が守っていたためその準備が狂ってしまいました。師直の先読みはさすがです。
 8月12日夕方。三条の直義邸と今出川の師直邸、それぞれに多くの兵が集まりました。あわせて数万騎ともいわれる大軍です。いつ武力衝突が起きても不思議ではありません。
 尊氏は驚いて直義に使者を送り、こう伝えました。
「師直・師泰はこの頃、奢りが過ぎて主従の礼を乱しているようだ。あまりに常軌を逸している。そなたの邸宅に攻め寄せようとしているようだから、急いでこちらへ来なさい。生きるも死ぬも一緒でいよう」
 はて、前日には高師直に対して
「生死をともにしよう」
と言っていたはずなのに、今度は直義に似たようなことを言っています。尊氏の真意はどこにあるのでしょうか。
 まあ尊氏は以前から一貫性のない行動をとり続けていた人物なので、さほど不思議でもありませんが、尊氏にとっては直義・師直どちらも大事な同志なのかもしれません。

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