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日本人の物語01175【南北朝末期】北朝5代後円融天皇

今日が祝日だということを昨夜まで忘れていました。休みが増えたようで得した気分です。

 正平25/応安3(1370)年は細川頼之と斯波・渋川氏の対立が激化した年でもありました。
 斯波義将は一時は初代管領にまで上り詰めながら、父・高経の反逆によって失脚を余儀なくされ、管領の座も細川頼之に譲らされ、凋落していました。そんな中、義将は前将軍義詮の妻・渋川幸子と結びつくことで権力を取り戻そうとしていたのです。
 渋川幸子は、義詮との間に産まれた子が夭折するという悲劇に見舞われた上、義詮の側室・紀良子が産んだ義満が3代将軍に就任してしまったため、紀良子に強烈な嫉妬心を抱いていたものと思われます。一方、自らの親類に対する思いが強く、正平20/貞治4(1365)年に九州探題に甥の渋川義行を就任させるなど、幕府内での発言権を強めていました。中世史学者の佐藤進一氏は幸子について、
「何一つとりえのない凡愚な亡夫義詮とは対照的な女傑」
と評しています。
 正平25/応安3(1370)年6月。細川頼之は、九州攻略に失敗した渋川義行に代わって、盟友・今川了俊を九州探題に任命しました。いわば頼之による反斯波人事・反幸子人事が始まったといえます。
 さらに8月には、皇位継承をめぐって頼之と幸子の争いがありました。
 後光厳天皇は長男・緒仁親王(おひとしんのう:後の後円融天皇:1359~1393)への譲位を望み、幕府に諮問してきました。ところが天皇の兄に当たる崇光上皇は、自らの子である栄仁親王(よしひとしんのう:1351~1416)の即位を主張し、兄弟対立が起きたのです。
 緒仁親王の母は紀仲子(きのなかこ:1339~1427)であり、その姉である紀良子が足利義満の母に当たるため、緒仁親王と義満は従兄弟の関係です。もし緒仁親王が即位してしまうと、その外戚である紀氏の発言権が強まることは明らかであり、渋川幸子はそれを警戒していました。
 そこで崇光上皇は渋川幸子に接近していきます。共にアンチ緒仁親王という共通点から連携できると考えたのでしょう。崇光上皇が幸子を通じて諸大名に働きかけた結果、諸大名の多くが味方になりました。しかし細川頼之は
「譲位は天皇の意思によるべき」
として、後光厳天皇を擁護します。
 この対立は、頼之側に軍配が上がりました。緒仁親王の即位が内定したことから、これに反発した斯波派の土岐頼康は勝手に京を出奔し、領国の美濃に引き籠もりました。これを「応安の政変」といいます。
 建徳2/応安4(1371)年3月23日。緒仁親王が即位し、後円融天皇となりました。義満と後円融は1歳違いの従兄弟ですから仲良くできると期待されていましたが、その関係は徐々に悪化していきます。

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