日本人の物語00124【人代前期】高句麗好太王碑文
その後古事記は、突然話が飛んで、神功皇后の出自を詳しく記しています。アメノヒボコ(天日矛)という新羅の皇子の末裔こそが神功皇后だと言って、その代々の名前を記しています。神功皇后の新羅支配を正当化するためと考えられます。
この時代に倭国が朝鮮半島に攻め入ったというのは、一見無理のある作り話に思えるかもしれません。文字もなかった倭国が、大陸側の国家を侵略できるほど発達していたとは信じがたいでしょうが、実はこの神功皇后の新羅征伐が史実であった可能性があるのです。
以前述べたように、中国の歴史書で描かれる倭国は、漢書地理志(前1世紀)、後漢書東夷伝(1世紀)、魏志倭人伝(3世紀)、宋書倭国伝(5世紀)となっており、4世紀の日本については全くの謎です。一方、応神天皇以降の歴史は、宋書倭国伝に描かれる歴史と一致する点がみられます。ということは、応神天皇より前、つまり神武天皇から神功皇后に至るまでの人代の神話は、4世紀の倭国の姿を反映したものである可能性があるのです。
中国の歴史書に載らない4世紀の倭国の様子を知る手がかりとして、『高句麗好太王碑文』があります。高句麗第19代王である好太王の業績を称え、414年に建てられた石碑です。
高さ6.3メートルの巨大な碑で、現在の中華人民共和国吉林省にあります。中国東北地方、旧満州といった方が分かりやすいでしょうか。
発見されたのは何と1880年。地元の農民が開墾作業中に発見したとのことです。
明治17(1884)年1月。情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉・酒匂景信(さこうかげのぶ:1850~1891)が、この拓本を持ち帰り、日本で研究が始まりました。
この碑文の内容は、およそ次のようなものです。
・新羅と百済は元々高句麗の属国だったが、倭国が辛卯の年(391年)に百済・新羅を破り、属国にしてしまった。
・399年。百済は倭国と和睦した。新羅は倭国を討つため高句麗に救援を求めてきた。
・400年。高句麗は新羅にいた倭国軍を退却させた。
・404年。倭国が再び帯方地方に侵入してきたので、高句麗がこれを撃退した。
3世紀前半には卑弥呼率いる邪馬台国が魏に朝貢していたわけですが、それから150年経て、倭国は新羅・百済を破るほどの大国になってしまったようです。この391年の新羅・百済征服こそが、神功皇后の新羅征伐という神話の元となったとの説があります。
なお、この碑文については、韓国の考古学者の李進煕(りじんひ:1929~2012)が「大日本帝国の朝鮮半島支配を正当化するため、酒匂大尉が碑文を改ざんした」と主張しました。一時期、李進煕の説が学界の多数説となっており、私が中学時代に高句麗好太王碑文について習ったときも、先生は「改ざんの可能性が高い」と言っていました。
ところがその後、平成18(2006)年に中国の徐健新(じょけんしん:1953~)教授が、酒匂以前に作成された拓本を発見し、酒匂は改ざんを行っていなかったことが判明しました。果たして新羅征討の実像はどんなものだったのか、今後の研究が待たれるところです。
