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日本人の物語01313【室町/義持期】義持の信仰心

称光天皇も暴力的な人物でしたが、その弟はもっとやばい人物のようで、そのエピソードは次回以降また出てきます。

 明や朝鮮との外交問題を辛くも乗り切った義持でしたが、今度は皇室との付き合いに苦戦することとなります。
 称光天皇は気性が荒く、気に入らないことがあると近臣や女官を鉄製の鞭で打ち据えたという話は以前述べました。称光天皇の弟の小川宮(おがわのみや:1404~1425)も同様に困った人物だったようで、応永27(1420)年1月3日の正月儀礼において「小川宮が妹を蹂躙(じゅうりん)し、母の日野西資子は涕泣(ていきゅう)した」との記録があります。この「蹂躙」の中身はよく分かりませんが、当時の公家の日記に「淫事ゆえ」詳細が記せないとの記述があり、恐らく性的に暴行したものと思われます。
 小川宮はこのことが理由で後小松上皇に勘当されましたが、義持のとりなしで10月には勘当を解かれました。これ以後も、義持は皇室内のトラブルを何度も仲裁しています。
 かねてよりの飢饉のため義持は倹約を奨励していましたが、7月17日には八朔の贈答儀礼(現在でいうところの御中元)を中止するよう命じました。自分も受け取らないと明言したのですが、天皇・上皇・関白宛てのものは規制しないことも宣言されました。やはり皇室には特段の配慮を見せています。
 9月20日には、密通罪で追放された御所侍(ごしょざむらい:皇室に仕える武士)が赦免を求めて仙洞御所に押し掛けるという事件がありました。激怒した後小松上皇は「捕らえて六条河原で斬れ」と言い出し、義持は「先例では流罪が相当です」と諫めるも聞き入れられず、やむなく上皇の意志に沿って斬ることとなりました。これまた義持は皇室には逆らえないようです。
 このように義持が皇室に深く配慮する理由は、神仏への強い信心があるためと思われます。ただ、その信心のあまりの深さには危うさを感じずにはいられません。
 例えば、この年の8月に義持は病床に臥すのですが、9月9日に
「主治医の高間良覚(たかまりょうがく)が狐を使って義持に妖術をかけている」
との噂が聞こえてきました。将軍御台所・裏松栄子(うらまつよしこ:1390~1431)が験者に加持をさせたところ、将軍の邸宅である三条坊門第から狐二匹が逃げ出してきました。
 噂は本当だったということで、翌日高間は管領・細川満元に逮捕され、四国への流罪が決まりました。その後10月10日に高間は配流の途中で殺され、まるでそれが決め手となったかのように11月7日に義持は全快します。
 何とも非科学的で不思議な記述です。現代人の我々からすると、高間は何者かの謀略で葬られたとしか思えません。
 義持自身が謀略と理解した上で、何らかの理由で高間を葬ったのであれば良いのですが、どうも義持は本気で神仏を信じているようなので、何者かの謀略に乗せられて安易に自らの側近を切り捨ててしまった気がしてなりません。義持は神仏を持ち出されると騙されやすく乗せられやすい性格だったのかもしれません。

義持は成長とともに父・義満に似てきて、横暴な人物になっていきますが、神仏への信仰心だけは変わらず持ち続けているようです。

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