日本人の物語00545【鎌倉初期】義経=チンギスハン伝説
「義経に生き延びていてほしい」という人々の思いが様々な生存説を作ったのでしょうが、その中でも特に極端な珍説が、「義経=チンギスハン説」です。
まず、チンギスハンの生年は1162年で義経の生年は1159年。義経が衣川で死んだとされているのが1189年で、少年時代が謎に包まれているチンギスハンの活動が表舞台に出始めたのが1190年頃。
なるほど、同一人物という説が成り立つための基本的な条件はクリアしているようですね。
さらに、両者とも酒を好まなかったという共通点がありますし、チンギスハンが即位の式において掲げた「九旈の白旗」は源九郎義経の「九」、源氏の「白旗」をかたどったものだといった、やや苦しい根拠がいろいろと語られています。
しかし、両者は肉体的特徴があまりに異なります。義経は小柄な美男子なのに対して、チンギスハンはかなりの巨体です。義経というよりは弁慶に近いでしょう。
このような珍説がいつから語られるようになったかというと、どうやら江戸時代に残夢(ざんむ)という自称数百歳の怪僧が現れ、
「義経殿は蝦夷に渡った」
と自ら見てきたように語ったのが初出のようです。
これを契機に義経生存説が次々と生まれ、大正13(1924)年には小谷部全一郎(おやべぜんいちろう:1868~1941)という牧師が『成吉思汗(ジンギスカン)は源義経なり』と題する論文を発表し、物議を醸します。これは歴史学会からは袋叩きにされたようですが、それでも一部の読者の熱烈な支持を得て、現代にまで語り継がれました。
戦後には、推理作家の高木彬光氏が小説『成吉思汗の秘密』を発表し、名探偵・神津恭介が義経=チンギスハン説を見事に証明するというストーリーを作り上げました。
神津恭介は、「そもそも奥州藤原氏が大量の金を保有していたのは、玉山金山から産出された金だけでなく、シベリア由来の金に依存していたためではないか」と大胆な説を繰り出します。奥州藤原氏は朝廷にも鎌倉にも知られることなく、樺太経由で大陸と貿易をしていたというのです。
だとすれば、義経が秀衡の遺言に従って大陸に渡ろうとするのは頷ける話ではあります。だからといって、大陸で天下を取ってしまえるものなのか、疑問ではありますが。
さらに、「成吉思汗」の「汗」は部首を分解すると「水干」となり、白拍子の服装を意味する言葉になるわけで、これは義経が静御前を思って自ら名付けたのではないか……などなど、かなり無理のある論理展開ではありましたが、このロマンある推論は多くのファンを生んだようです。
