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日本人の物語01207【南北朝最末期】義満の権威 遅刻の歴史

『遅刻の歴史』というタイトルで一冊本を書いてみたら売れますかね。書くとしたら小田原攻めの伊達政宗や関ヶ原の徳川秀忠などを入れ込むつもりですが。
と思って調べたら既に『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』という本がありました。

 さらに義満は、遅刻に厳しい人間でした。
 前述の天授7/永徳元(1381)年7月23日に行われた大饗の儀式に遅刻した御子左為遠(みこひだりためとお)は、翌日出仕したところを義満に追い出されてしまい、その後酒浸りの生活を送った挙句、1ヶ月後に脳卒中で死去しました。
 同年冬に行われた等持寺八講(足利将軍家の祖先供養仏事)においても、義満は同様に遅刻した西園寺公永らを締め出し、参加できないようにしました。こちらは公卿が必ずしも参加すべきものではなく、単に足利家のプライベートな法事であるにもかかわらず、義満は公卿らに出席を強要した挙句、遅刻者を締め出したのです。
 そもそも日本は遅刻に寛容な国でした。飛鳥時代の十七条憲法には「日の出までに出仕せよ」とあるのに、実際に日の出までに出勤する官人は少なかったらしく、舒明天皇8(636)年に大派皇子が
「卯の刻(朝6時頃)に出仕して巳の刻(朝10時頃)に退出するよう決めてはどうか」
と提案したものの、蘇我蝦夷に却下されています(00172回参照)。
 奈良時代の神護景雲2(768)年には称徳天皇臨席の上で行われた任官の儀に多くの官人が無断欠席しており、延暦21(802)年には無断欠席者のうち五位以上の者には制裁が科されることが決まりました。弘仁7(816)年からは六位以下の者にも処分が下ることが決まります。
 それでもなお、官僚たちは遅刻・無断欠席を繰り返していました。平安時代の物忌みと方違えは遅刻・無断欠席の言い訳として用いられ、藤原実資は「藤原斉信の遅刻癖は困る」と日記に愚痴っています。
 天授元/永和元(1375)年には後円融天皇の大嘗会に裏松資康が遅刻していながら、特段の処分を受けた記録がありません。宮中で遅刻は当然のように受け入れられていたのです。
 日本に「時間を守らなければならない」とのルールが根付いたのは、禅の影響によるものです。中国の元の時代に作られた禅宗寺院の儀式や生活を示した『勅修百丈清規(ちょくしゅうひゃくじょうしんぎ)』という書籍が禅宗寺院の生活規則として用いられ、そこに時間を遵守すべき旨が書かれているのです。
 室町幕府は武士たちに禅を学ぶことを薦めたため、武士たちの間に時間を遵守するルールが行き渡りました。そして義満はそのルールを公家の世界にも一方的に適用し始めたのです。
 ただ、義満によって時間を守るようになったといえども、太陰暦では30分程度のズレは誤差の範囲内です。日本人が分単位で時間を守るようになったのは、明治以降のことでしょう。

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