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日本人の物語01416【信広渡海】コシャマインの乱 決起

アイヌ人の名前の付け方がよく分かりません。乙孩(おつがい)というのはどういう意味なんでしょうね。

 アイヌが蜂起する原因となったのは、康正2(1456)年春に起こった殺人事件でした。
 ある日、乙孩(おつがい)という名の東部アイヌの若者が、志濃里村(北海道函館市)の鍛冶屋(和人)に注文していたマキリ(小刀)を受け取りに来たところ、その代金のことで言い争いになり、鍛冶屋が乙孩をそのマキリで刺し殺してしまったのです。
 この事件に憤慨したアイヌ人たちが蜂起し、和人が多数殺害されました。このときは道南十二館までは襲撃されずに済み、やがて秋に食料採集期が来たことでアイヌは一斉に退却し、騒ぎは収まりました。しかしこれは前哨戦に過ぎませんでした。
 さて、三守護体制と道南十二館を基軸とするアイヌ交易を差配していた安藤政季は、本土に帰りたいという思いを捨てきれずにいました。下国安藤氏は滅んだものの、上国安東氏(湊安東氏)は今も秋田湊に住んでおり、その安東鹿季の孫に当たる惟季(これすえ)から
「本土に帰って来い。共に南部と戦おう」
との書状が届いたことから、政季は遂に蝦夷を捨てて本土に戻ることを決めました。蝦夷ヶ島の管理を弟たちと武田信広に任せ、檜山城(秋田県能代市)へと渡っていったのです。これ以降、政季の系統も漢字表記が「安藤」から「安東」に変わり、「檜山安東氏」と呼ばれるようになります。
 政季はもはやアイヌの蜂起は終わったものと思い込んで蝦夷を去ったのでしょうが、実際には食料採集期ゆえ一時的に停戦したに過ぎませんでした。翌長禄元(1457)年5月14日、コシャマイン率いるアイヌ勢が大挙して押し寄せ、戦闘が再開しました。
 ここで登場したコシャマインは「東部の酋長」と記されており、その本拠地は不明ですが長万部(おしゃまんべ:北海道長万部町)あたりの可能性が指摘されています。その軍はコシャマインが主将で、その息子(名前不明)が副将だったようです。
 ここからは「道南十二館」がコシャマインの軍に次々と落とされていく経緯を見ていきましょう。
 コシャマイン父子はまず、⑩小林良景の志濃里館を陥落させました。次に⑨河野政通の箱館を落とし、ここを本拠地としました。小林良景・河野政通は辛くも脱出し、舟で茂別館に逃れました。
 ちなみに志濃里館の小林家文書には、
「夷族大挙して来て、(小林)良景が志濃里の塁及び河野加賀守政通が宇須岸の塁に迫り、終に破られて、塁主良景戦死す」
とあります。小林良景が死んだのか逃亡したのかは史料によって異なるようです。

①から⑫までの番号は、前回紹介した道南十二館に付けた番号そのものです。できれば地図を付けた方が分かりやすいのですが、良い地図が見つかりませんでした。

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