日本人の物語00627【鎌倉前期】摂家将軍の下向
建保7(1219)年3月11日。要請を拒絶された藤原忠綱が空しく京に戻ると、3月15日には北条時房が1000騎を率いて上洛し、後鳥羽上皇に再び皇子下向を要請しました。武力による恫喝といってよいでしょう。
しかし後鳥羽上皇は恫喝に屈することなく、皇子の下向をあくまでも拒否しました。地頭人事の要請を拒絶するのなら、皇子下向もお断りだというわけです。
ただし後鳥羽上皇は、
「摂関家(藤原氏)の子弟ならば下して構わない」
との妥協案を示しました。これを受けて、時房は皇族将軍を諦めて摂関家から将軍を迎えることとし、九条家に交渉に赴きます。
この頃、九条家の重鎮であった九条兼実は他界し、その子の良経(よしつね:1169~1206)も早世したため、良経の子の道家(みちいえ:1193~1252)の時代になっていました。道家は、鎌倉幕府と友好的な兼実の孫に当たるわけですから、幕府から見るとやりやすい交渉相手でした。
九条道家は時房の要請を快諾し、三男で当時1歳の三寅(みとら:後の九条頼経:1218~1256)を鎌倉に下向させることとなりました。
ちなみに三寅は頼朝の血を引いているわけではありませんが、頼朝の妹である坊門姫(ぼうもんひめ:?~1190)の血を引いています。坊門姫は一条能保(いちじょうよしやす:1147~1197)に嫁いで全子(まさこ)を産み、その全子が西園寺公経(さいおんじきんつね:1171~1244)に嫁いで掄子(のぶこ)を産み、その掄子が九条道家に嫁いで三寅を産んだわけです。まとめると、三寅は頼朝の妹の曽孫に当たるというわけです。
三寅が東海道を鎌倉に向かっていた7月13日、新将軍就任に水を差すような事件が京で起こります。源頼政の孫に当たる源頼茂(みなもとのよりもち:1179~1219)が、将軍位の継承権を主張し始めたのです。後鳥羽上皇は激怒して頼茂追討の院宣を出し、御家人たちは頼茂邸を襲撃しました。
頼茂が将軍位の継承権を主張したからといって、後鳥羽上皇が怒る理由はよく分かりません。「自分の命令でどれだけ兵が集まるかを試した」とか、「後鳥羽上皇の倒幕計画を知ったために消された」などの説がありますが、真相は闇の中です。
その後、7月19日に三寅が鎌倉に入りました。その後、嘉禄元(1225)年12月29日には元服して九条頼経(くじょうよりつね)と名乗り、嘉禄2(1226)年1月27日に征夷大将軍に宣下されることとなります。
