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日本人の物語00709【鎌倉後期】惟康親王の都流し

 持明院統と接近した平頼綱は、このコネクションを幕府運営にも生かそうと考えます。
 正応2(1289)年、2歳で将軍に就任した惟康親王は、いつしか25歳の青年に成長していました。将軍を傀儡として利用したい幕府としては、成人して分別のついた将軍は邪魔な存在です。
 ここで4代目以降の将軍の就任時年齢と退任時年齢を見てみますと、次のとおりです。
・4代将軍九条頼経: 7歳で就任し26歳で退任
・5代将軍九条頼嗣: 4歳で就任し12歳で退任
・6代将軍宗尊親王: 9歳で就任し23歳で退任
・7代将軍惟康親王: 2歳で就任し現在25歳
 頼綱が、惟康親王を辞職させるべき時期だと考えたのもうなずけるでしょう。
 9月14日。惟康親王は朝廷に自ら辞職を申し出たこととされ(実際には無理やり辞職させられ)、京へ送還されることとなりました。
 日記風の文学作品『とはずがたり』には、惟康親王を輿に乗せるためやって来た武士たちが土足で将軍御所に上がり込み、女房たちが泣いて右往左往する場面や、罪人を移送する作法に則って惟康親王が逆向きに輿に乗せられる場面があります。しかし御家人たちは将軍を形式上だけでも敬っていたはずですから、さすがに誇張でしょう。
 『増鏡』には、網代の輿の中から、惟康親王の涙をぬぐい鼻をすする音が聞こえてきたとの記述があります。また、
「将軍都に流されたまふとぞ聞こゆる。めづらしき言の葉なりかし」
(将軍が都に流罪となったという。珍しい言葉の使い方だ)
との記述があります。鎌倉に産まれ育った惟康親王にとっては京への旅路は流罪のようなものだったのでしょう。
 新たに将軍となったのは、伏見天皇の弟の久明親王(ひさあきらしんのう:1276~1328)でした。10月9日に征夷大将軍に宣下され、10月25日に鎌倉に到着しました。12歳での就任ですから、他の将軍に比べるとやや年齢が高いですが、持明院統と幕府の蜜月関係を象徴する将軍交代劇でした。
 こうして持明院統は上皇(後深草上皇)・天皇(伏見)・皇太子(胤仁)・将軍(惟康)の位を独占することとなります。この情勢を悲観した大覚寺統の亀山上皇は、9月7日に出家しました。将軍交代は10月の出来事ですから、一見すると因果関係が前後しているように見えますが、9月7日時点で将軍交代が既に内定していたと考えれば矛盾はありません。

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