日本人の物語00823【建武期】護良親王追放*
話は二条河原の落書の数ヶ月前にさかのぼります。
征夷大将軍となった護良親王は、政権内で思うように存在感を発揮できず焦っていました。元弘4(1334)年1月23日には後醍醐天皇の五男・恒良親王(つねよししんのう:1325~1346)が皇太子となったため、天皇になる道を絶たれてしまいましたし、陸奥には長男・義良親王が、鎌倉には六男・成良親王が派遣され、三男の護良親王には出番がありません。
ここに登場した恒良・義良・成良の3親王は、いずれも後醍醐天皇と阿野廉子との間に産まれた子です。天皇にとっては、隠岐にまで同行した阿野廉子が可愛いのでこの3人を優遇してしまうのでしょう。一方、護良親王の母は民部卿三位(みんぶきょうさんみ:?~1329)という故人であり、後ろ盾が不足していたのです。
思い余った護良親王は、対立していた足利尊氏を討とうと兵を集め始めます。建武元(1334)年6月7日、護良親王は兵を率いて尊氏の館を襲撃すべく出陣しました。ところが尊氏もさるもので、館の四面に武士を配置して警戒していたためこの襲撃計画は未遂に終わります。
敵意を向けられた尊氏もまた、護良親王を追い落とすべく計画します。護良親王が発したという尊氏打倒の令旨を入手して、これを阿野廉子に渡したのです。息子3人を引き立てたい阿野廉子からすると、存在感を発揮したがる護良親王は政敵ですから、「これは利用できる情報だ」とばかりに後醍醐天皇に即報してしまいます。
自分に相談もなく尊氏を葬ろうとした護良親王に、後醍醐天皇は激怒しました。天皇は護良親王を流罪にすると決定し、逮捕を命じます。
10月22日。護良親王は清涼殿で開催する詩会への出席を求められ、参内したところを結城親光・名和長年に逮捕されました。護良親王はあろうことか足利尊氏に預けられることとなり、足利家の牢に収容されたといいます。
11月15日。護良親王の流罪先は鎌倉と決まりました。足利直義と千寿王が治める土地ですから、言わば政敵たる足利家にそのまま預けられることとなったのです。駕籠に乗せられた護良親王は
「武家よりも君のうらめしくわたらせたまふ」(今となっては尊氏より父の方が恨めしい)
と泣き言を言ったと記録されています。
ちなみに軍記物語『梅松論』には、もっと恐ろしい話が書かれています。尊氏を殺そうとしたのは本当は後醍醐天皇だったのに、暗殺に失敗した天皇はその罪を護良親王になすりつけたというのです。
何が真実か分かりませんが、後醍醐天皇が尊氏をある程度警戒していたことは事実です。尊氏がもう少し早く反逆を起こしていれば、護良親王は天皇にとって強い味方となったはずでした。護良親王の予想以上に早い退場は、尊氏にとって大いなる敵失だったといえるでしょう。

