日本人の物語01371【室町/義教期】万人恐怖
これまた元天台座主・義教による古巣への迫害です。
いよいよ独裁者義教の最も恐ろしいエピソードに触れなければなりません。
永享6(1434)年7月、「延暦寺が鎌倉公方持氏と通謀して義教を呪詛している」との噂が流れました。持氏が義教を呪詛したのは、鶴岡八幡宮に願文が現存しているので紛れもない事実ですが、延暦寺がそれに加担していたかどうかは定かではありません。
怒った義教は、8月に近江守護である京極持高(きょうごくもちたか:?~1439)・六角満綱(ろっかくみつつな:1401~1445)に命じて比叡山一帯を包囲させ、物資の流入を妨害しました。延暦寺側は例によって神輿を奉じて入洛し、強訴に及びましたが幕府軍に撃退されてしまいます。
そして11月19日、義教は本格的に幕府軍を編成して近江坂本に向かわせ、民家に次々と放火させました。延暦寺の門前町が広域に渡って焼かれたのです。
12月6日に延暦寺の衆徒たちが降伏を申し入れ、幕閣たちはこれを受け入れようとしましたが、義教は受け入れません。12月10日には管領細川持之らが
「赦免できなければ、私たちは自邸を焼いて本国に退去する」
とまで言って諫言したところ、義教はようやく折れて和睦が成立しました。
翌永享7(1435)年2月、義教は衆徒らを呼び出します。なかなか信じてもらえなかったため、義教は「騙し討ちはしない」との管領名の誓紙まで提出しました。
2月4日、誓紙まで出してもらえたのなら……と信用して出頭してきた衆徒らは、なんとその場で斬首されました。義教の和睦受諾は最初から嘘で、呼び出して殺すつもりだったのでしょう。かつて比叡山のトップ・天台座主まで務めたはずの義教は、欺罔を用いてまで衆徒たちを殺害したのです。
翌5日、仲間が斬首されたことを知った衆徒らは比叡山の根本中堂に火をかけ、24人が焼身自殺しました。義教を呪詛するための儀式を執り行いながら死んでいったわけです。
義教は根本中堂の事件について箝口令を布きました。といっても根本中堂の炎上は洛中からもよく見えたそうなので、事件の話は当然広まるに決まっています。
2月8日、この事件について単に噂話をしただけの商人が捕縛され、斬首されました。貞成親王の看聞日記には
「万人恐怖。言うなかれ言うなかれ」
と記され、この言葉は義教の政治を表す最も有名なものとなっています。
これほどの恐怖政治が布かれる中で、6月13日に満済が、7月4日に山名時熙が、それぞれ死去しました。もはや義教を止め得る人物はいません。
当時、誓紙を提出しておきながら約束を破ると地獄に落ちると信じられていました。義教は自らの名義ではなく管領・細川持之の名義で誓紙を出しているので、泥をかぶった持之は嫌だったでしょうね。
